フォト
無料ブログはココログ

賢治参考図書

  • Img_0215
    21年は一市は花巻村です。

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月

2006-05-31

宮沢賢治の詩から

 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」のホームページからの「リンク」で、「宮沢賢治の詩の世界」を開き、五月十四日「その南の三日月形の村(2)」をご覧の方も少なくないと思います。わたくしは以前からこれらの「詩」に関心がありました。

 入沢康夫氏が、(「銅羅」三十号 1976年5月)に、「賢治の一詩篇をめぐって」と題して、その後「日本文学」に1989年9月号に、{(宮沢賢治)「みんな食事もすんだらしく」}を杉浦静氏がお書きになられ、また{「清水寺研究会」(清水寺研究)1999年}に宮川恵佐巨氏が「宮沢賢治と清水寺」なる論考をお出しになられています。

 この一連の詩にかんして、杉浦さんが日本文学にお書きになられたのは、入沢さんの「検証」がなされてから十年余の日時が経過してからでしたが、わたしが気になります事のひとつは、「そのまっくらな巨きなもの・」が、「清水寺」とに関連した詩「境内」の前半部である事は承知していますが、それと{春と修羅 第三集の「1042 同心町の夜あけがた」と底流するものがある}といわれることについてです。賢治に対しての<強い皮肉>や<嫉視><懼れ>などと様々な推測が出来ることだと言うことについてです。「同心町の夜あけがた」は後に触れるとして、「境内」の下書き稿他一連をみて、宮川氏の指摘もあるのですが、どことどのようなことが「境内」の清水寺との関連で底流するのかです。わたくしはまず問題てんは、「境内」なるこの作品は、何時ごろの作者の作品であるのか。詠みの発想としてです。

 はじめに 「境内」のなかの作品のことから考えてみたいと思います。{みんなが弁当をたべている間/わたくしはこの杉の幹にかくれて/しばらくひとり憩んでいやう }とあり、 このつづきに次のように記されています。 {二里も遠くから・・・・}とあります。{二里も遠くから・・・}とは何処から「境内」を観ているかです。{この野原中/くろくわだかまって見え/・・・・}である「境内」を、「二里も」はなれている所から見ているのですが、そこは、賢治が教鞭をとっていた農学校から観ている「境内」の周りの鬱蒼たる杉林のところのことでしょう。 {ひとり憩んで}いながら、「くろくわだかまって見え」ていたときのことを、回想をしている所でしょうか。さて、次に<そのまっくらな巨きなもの>と、「境内」の詩のどこの行の部分が、どのようなような繋がりのところとして読み取ったなら、「この時期の賢治の農民との関係の総体を背景に」読むことができるのでしょうかです。<そのまっくらな巨きなもの>との関連からです。 つづく

2006-05-13

弥助橋について

 宮沢賢治の作品中に「弥助」名はない。春と修羅 第三集の七三五 饗宴 1926,9,3、や、その下書稿、それに「饗宴が改稿されて作品番号 日付を失った作品」 {皆は酸っぱい胡瓜を噛んで}等の下書稿と、文語詩 未定稿中の饗宴には、「赤砂利を盛れる土橋」などとは記されているが、「弥助橋」の名はないのである。これ等の作品中には「弥助」名はないが、饗宴の舞台の橋は、此処の場所の橋で間違いない。この場所に立てられた「標柱」は、市の観光課でも記念館でも関与していないとのことだが、羅須地人協会跡地の詩碑に訪れる方の、最初で最も目に入りやすいところである。この土橋は、十字路につらなる主要な橋にも関わらず、かっては丸太を並べて架けられた粗末な橋だったと聞く。事故がおきたのである。橋の南側は、太い松ノ木が、路地のほうに根を露にしていた。その根もとは赤砂利だった。いまは沢に流れる小川(堰)も、そして周囲も一変し、面影さえ感じられなくなった。だいいちに「田」や「苗代」がそして「林」が無くなったのである。賢治の考えていた「農」は、「観光」と「歌声」にヘンシンしたのだろう。夕暮れどきでか淋しかった。

2006-05-11

かっぱさわ

 半世紀ぶりに「かっぱさわ」を訪れてみた。_015_7 _012_3 _020_7 以前の景色はかすかに遺されてはいたが一変していた。沢は、雑木や倒木などと笹薮で、荒れていた。人の入った気配はまったく感じられなかった。子供のころ沢には、沢しもから入って、ミズやセリ、ときにはワサビを積んできたりした。かみからの流れてくる水だけではなく、湧き水が豊富であった。いまは沢の出口に堤防がきずかれて、沢に入るのは子供には危険な感じである。北側は以前と変わって林がなくなり、近くまで住宅が進出してきていた。沢はそのために明るさを得ている。雌の雉が沢の斜面に見えて、ホッとした。段丘の東斜面に山吹がひっそりと咲いていた。

 かっぱさわに流れている堰き(小川)は、ニセアカシヤや柳、笹などに被われていたが、今は暗渠になり、遊歩道のカラフルな道と化していた。わたしは弥助橋について以前「饗宴の舞台」として賢治研究42号1987年1月号に書いた。弥助さんに付いては知っていたが、此処の土橋から落ちて帰らぬ人となった方でしたので、名前は記さなかったが、今回その方のお孫さんの豊川益太郎氏南城小学校昭和12年三月第四回卒業生が、祖父であることを発表なされたのと、自費で標識を建立されたのである。 (つずく)

2006-05-03

Aさんに逢う

 昨日、数年ぶりにAさんを訪ねた。受付で

  私 「A先生 いらっしゃいますか」  「はい いらっしゃいますよ」 そして すぐ なかからのそうさか、中が外からよくみえるドアが開いた。

  Aさん 「や なんだーー しばらく 」  私 「連絡をしてからくると 忙しいからと断られそうだったので  ダイジョウブ いそがしいでしょう 」  Aさん 「二三十分待てる 時間あるの こっちーー  」  私 「 うん いや ホールでいいよ 」  Aさんエレベーターで消えた   二十分くらいで Aさん 「やあ~やあ~ お待たせ ここでいいの」   

  私 「特別用事が有った訳じゃないが  どうしていらっしゃるかと  U先生どうしています 」   Aさん 「 うん 元気だろ~ 此処のところ ぜんぜん逢っていない 週一回向こうの病院で まだ働かせられているみたい 。 こっちも定年とっくに過ぎて  でも引っ張り出されているよ あさ八時半までに入らないといけないんだ 倅のところから通っていたころは六時半出だった 今は近くに住んでいるよ   」    私 「E先生 年賀状くらいは有ります?それから。。。 」   Aさん 「M 君  秋田で頑張っているみたい Kは山形か ここは連絡センターかなあー  もうこっちもらくしたいよ 歩かないせいで足が駄目になってきたよ  うん Eさん どうしているかな~ 」 。 UさんとEさんが、高台の神社と植物園の坂を上りきった少し先の、戦災にも遭わなかった古い家の二階の一間を借りていた。月のうちに一二度くらいしか帰らなかったので、わたくしはそこに厄介になっていた。UさんとEさんは研究と夜の仕事でほとんと帰らなかったのである。Eさんは精神科が専門だったが、内科や小児科でも働いていらしていた。定年前は国立のそっちこっちの所長をしていた。だいぶお世話になった時代だった。

  Aさん 「なにか  」     私 「いや ここではりっぱなニュウスをだしているんですね ホームページも 」     Aさん 「ううう  今は便利になったね 薬なんかを調べるのに つい最近まではあの厚い重たいのを引っ張り出して いまは楽になった。でなにか」PCの話になった 

  私 「このニュウースのホームペイジに こんなのを送ったが なしのなしのつぶてだったよ 」  Aさん 「もう 俺は定年で一度此処を離れているから 発言権は無いんだよ でも 云って置くよ はハハ 」  所長奮闘記(7)に 聞き手ー機関紙委員会担当理事 として Aさんの「真面目な取り組みを理解し、快く応じてもらえる世情であった」との記事と、A先生の顔写真と一緒に乗っていた。

   Aさん 「名刺をとってくるよ  」そしてわたくしに 「めいしは?」   私 「今度作っておきます 」   でも本当は、そんなものはわたくしには必要ないと思っています。  

  Aさん小さな声で 「ここの患者は 複合的な病が多いので 若い先生でも大変だよ 四六時中 気が抜けん仕事ですよ 」 。 そして事務所から 迎えにこられた 「先生 済みません」と わたくしは三十分くらいは居たのかも。

  此処の施設は新しく出来たばかりのようだ。結構大きい施設ほうでしょう。二十四時間緊急の用事が多いとAさんは話されて去られた。わたくしはお別れをしてきた。この場所は「沢」ではないが、両側とも高台である。

  帰りにもう1軒拠った。Aさんより年配者 よくお邪魔をするお家である。一人で生活をしているのですが、自分のマンション1Fで仕事をしてい方です。マンションの掃除や午後からの食事は、大変良いおばさんが、お手伝いをして下さっている。別に所帯をお持ちの娘さんが二人、時どき来られる。A先生よりは、心身ともにこちらの方が良い。

  「新茶が入った。煎れるからあがっててよ。メシ食べていけよ。なにがいい」。普段でも此処のお茶は高いのを買っているのだろう。本当に美味しい。何時もだがご馳走になって帰ってきた。雨もあがった。

  帰りに、高速バスの乗り場は、連休の人々のためでしょう。ごったがえしていた。

 今日は五月晴れだ。

   

  

2006-05-02

入沢康夫さんの仕事

今日の夕刊の文化欄に、「人事を中心に森羅万象をかきとめるかのような詩人」の日記についての記事が載っていた。「編集に携わった入沢康夫さんは{豪放磊落な大詩人というイメージが強かったが、日記を通して別の姿も見えてきた}」と。「晩年になるほど、生活と詩作と日記とが三位一体の様相を呈してくる」とも。日記作者は「下手でも上手でもいい。ポエヂーの洪水にアップアップ押しながされるとき。おぼれるようなとき。右手でも。左手でもいい。言葉をつかんでもちあげよ」(80年11月)。また 日記の作者は入沢さんのある「詩」を読まれて、「よく分からないが面白い」と云われたとのこと。入沢氏は、「詩は理解するものではなく感応するものだ」と言う。わたくしも大賛成である。入沢さんのいままでの詩作といい、ネルヴァルや宮沢賢治の全集の緻密な編集などの成果にくわえて、今回の日記の編集「全七巻」は、またまた大きなお仕事がさらなるに加えられたものだ。

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »