宮沢賢治の詩から
「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」のホームページからの「リンク」で、「宮沢賢治の詩の世界」を開き、五月十四日「その南の三日月形の村(2)」をご覧の方も少なくないと思います。わたくしは以前からこれらの「詩」に関心がありました。
入沢康夫氏が、(「銅羅」三十号 1976年5月)に、「賢治の一詩篇をめぐって」と題して、その後「日本文学」に1989年9月号に、{(宮沢賢治)「みんな食事もすんだらしく」}を杉浦静氏がお書きになられ、また{「清水寺研究会」(清水寺研究)1999年}に宮川恵佐巨氏が「宮沢賢治と清水寺」なる論考をお出しになられています。
この一連の詩にかんして、杉浦さんが日本文学にお書きになられたのは、入沢さんの「検証」がなされてから十年余の日時が経過してからでしたが、わたしが気になります事のひとつは、「そのまっくらな巨きなもの・」が、「清水寺」とに関連した詩「境内」の前半部である事は承知していますが、それと{春と修羅 第三集の「1042 同心町の夜あけがた」と底流するものがある}といわれることについてです。賢治に対しての<強い皮肉>や<嫉視><懼れ>などと様々な推測が出来ることだと言うことについてです。「同心町の夜あけがた」は後に触れるとして、「境内」の下書き稿他一連をみて、宮川氏の指摘もあるのですが、どことどのようなことが「境内」の清水寺との関連で底流するのかです。わたくしはまず問題てんは、「境内」なるこの作品は、何時ごろの作者の作品であるのか。詠みの発想としてです。
はじめに 「境内」のなかの作品のことから考えてみたいと思います。{みんなが弁当をたべている間/わたくしはこの杉の幹にかくれて/しばらくひとり憩んでいやう }とあり、 このつづきに次のように記されています。 {二里も遠くから・・・・}とあります。{二里も遠くから・・・}とは何処から「境内」を観ているかです。{この野原中/くろくわだかまって見え/・・・・}である「境内」を、「二里も」はなれている所から見ているのですが、そこは、賢治が教鞭をとっていた農学校から観ている「境内」の周りの鬱蒼たる杉林のところのことでしょう。 {ひとり憩んで}いながら、「くろくわだかまって見え」ていたときのことを、回想をしている所でしょうか。さて、次に<そのまっくらな巨きなもの>と、「境内」の詩のどこの行の部分が、どのようなような繋がりのところとして読み取ったなら、「この時期の賢治の農民との関係の総体を背景に」読むことができるのでしょうかです。<そのまっくらな巨きなもの>との関連からです。 つづく
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