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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006年6月

2006-06-29

賢治作品の散歩フロク

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メーテルリンクとヘッケルの写真

 栗原古城訳の「死後は如何」緒言に「マーテルリンクは神秘の偉大を知りてその前に跪き、霊魂の懾きを聞漏さじとする人である。彼は此点に於てはエマーソンの徒弟でもあつて、而もエマーソンの世間的分子を除いて、もう一層神秘的色彩を濃くした人と云うべきであらう。彼の哲学的論文も殆んどエマーソンと同一程度に達し、而も未だ曾て彼の道破せざる神秘を語っている。エマーソンを哲学者にあらずして聖者と云うならば、マーテルリンクも矢張り此類の人である。彼はベルグソンと同じように、吾等の本姓や直覚に映じ来る本然の使命に従わんと欲するならば、理智一方に偏した外的の空騒ぎを止めて、静思と瞑想とに沈潜せねばならぬことを教えている。此點に於いて彼は昔からの東洋の聖者達と同様であって、今日の科学的物質主義を葬るべき欧州思想界の先駆を為すものである。」とあります。

 {この本と併せて高橋五郎氏訳 「心霊学講話」(デゼルチィス原著、玄黄社発行)を一読せられ度い。}と記されて、続いて目次と進み、 第一章 死に対する吾々の迷想 から 第十二章まであり、附録 交霊術とは何ぞや で終わっています。

 賢治作品のなかに、としさんを想い求めた世界を理解するのに不可欠と迄は申しませんが、これらの著書は一読に値するかもと思はれます。

 追記 栗原古城の古が小になつていました。かぐら川様からのご指摘があり、訂正をして

お礼を申しあげます。

 玄黄社版 譯者 栗原 元吉  (2007年8月7日記)

壺中の天地

 _005 賢治が読まれたであろう本か。

エマーソンは佐藤勝治さんが以前写真入りで説明されていましたからこれはOKです。玄黄社版と国民文庫刊行会の全集6巻本は、どちらも戸川明三(秋骨)訳です。

 メーテルリンクの「死後は如何」は如何でしょうか。この「死後は如何」については次回に触れます。

 ヘッケルは「生命の不可思議」よりもこちらの「宇宙之謎」のほうが、如何でしょう。141頁から337頁までが、次のような項目です。「第二篇 心理的研究   第六章 霊魂の本質  第七章 心理的階級  第八章 霊魂の発生  第九章 霊魂の系統  第十章 意識  第十一章 霊魂不滅 」。これはヘッケルですよ。 

 同じ発行所からでている、オリバーロッチの「死後の生存」。これは私としては大変なお薦め本です。大正六年五月発行のものです。心霊現象研究華やかさが感じられる当時の一冊でしょう。「十字通信の発見」や、「タネリ」を思わせる「ネリーとはタムソン夫人が使ったスピリット名」とあったりしてとても楽しいですよ。タムソンの「タ」を「ネリ」のあたまにのっけちゃう。こんなのってどうです。 心霊現象研究に熱?を入れ過ぎて帝国大学の教職を棒に振った方が居られたのも、さもありなんかです。今日の壺中からはこのへんで では又

2006-06-09

ヤジュルの悲しみ

 あるお方から次のような有難いご指摘を受けました。 貴方の「宮澤賢治の詩から」の一連を読みました。{「宮澤賢治の詩の世界」の中の、5月14日 「その南の三日月形の村(2)」の何処のところの事が、貴方と考えているところが違うのか}と。その他にも有りましたが、取り敢えずこの点について、わたくしの考えを述べます。少し長文ですが、次に引用いたします。

 1925年9月、翌春に農学校を退職するとすでに心に決めていた賢治は、ひそかに太田村を訪れて、そこにある廃屋の一つを自分の住居として借りられないか、村人と交渉してみたのではないしょうか。そしておそらく賢治は老人から冷たく断られ、結局は下根子にあった宮澤家別宅に移り住んで「羅須地人協会」を始めることになったのです。

 以上は最後の行から約三十行程前のところです。わたくしは前にも記しましたが、賢治詩を読まれる方は、詩ですからどのようにお読みになられても一向にかまわないと思うのですが、「おそらく」と言う推定で「賢治は老人から冷たく断られとの考えで、賢治と地域住民とを対立関係としての捕らえ方、見方をされることが如何なものかと考えるものです。其の事については、他でも記しましたのでここでは省きます。「立証」や「状況証拠」の言葉をお書きになされるお方ならば、少なくとも推定などでお書きになされますことはどんなものでしょう。「宮澤賢治の詩の世界」はたくさんの方がお読みになって居られます。「高村山荘」のような記され方をなされても困ると考えるものです。

2006-06-08

壺中の天地

 壺中天 私が大変お世話になっている素敵な方(女性です)が、「○○さんは晩酌はおやりにならずに、お好きなご勉強をおやりになさっていますよ。またK先生は、ご自宅にはテレビも、むろん晩酌もおやりに為さらないとの事、さきほどのお方などは、いちじは新聞も必要なだけをご購入なされてお読みになされている。それにたいし貴方は、外でも晩酌でも少しばかりでなくヤル。」と窘められました。わたくしは反省を込めてカッパらいふから壺中天の故事に習い、日々忘れないようにとの事でタイトル名を変えました。(でもナイショデスがわたくしは一生壺中の天地人かも) ヤジュル名に反しないように生きないといけませんね。反省 反省。お礼を込めて。

寺と鳥居

 賢治の詩「春と修羅 第四集」中の「みんな食事もすんだらしく」の詩のなかに、絵馬(和算の額)と鳥居が記されています。清水さんを象徴する記載です。下図の{「清水寺境内内外地図面」花巻市立図書館所蔵}は、「清水寺研究 第二号」に掲載されている「地図」です。このなかに、鳥居がみられます。_004_1

「古くからの幡や絵馬の間に/声あげて声あげて慟哭したい/杉の梢を雲がすべり/鳥居はひるの野原にひらく」。以上が「そのまっくらな巨きなものを」の後半の詩篇です。

 さて「羅須地人協会時代(大正十五~昭和三)の作とされ、農民との人間関係のなかで疎外され、傷つき、絶望へと傾斜して行く,賢治の暗く重い心情と自己励起をそこに読まれてきたもの。」と杉浦氏は観るのです。そして「そのまっくらな巨きなもの」「おれはどうにも動かせない」「結局おれではだめなのかなあ」とし、そして「同心町の夜あけがた」に見られるものが、「境内」に底流するものであったと言うのです。底流するということについては理解が出来ますが、時期や読まれているふたつの詩の場所及び情景を捨象してしまわれますと、その読み手の恣意性がはたらき過ぎませんでしょうか。「境内」なる作品は、桜の別荘で、賢治が独居自炊の始まる前の作品です。「境内」の作品の「暗さ」があって、桜での「暗さ」を説明されるという事は、桜での農民活動以前に、賢治自身がすでに「おれはどうにも動かせない」ものを抱いていた事になりましょう。それから次に大事だと思いますのは、羅須地人協会時代のどのような人々との間に「悪意・反感・疎外意識・嫉視」が有ったと言うのでしょうかと云う事です。詩作品は、お読みになる方はどのように読まれても、詩的言語で書かれているものですから読み手の自由でかまわないと、わたくしは思いますが、ただ、人との関係では、その関係は明らかでなければならないと思います。羅須地人協会時代のどんな人、詩の中に描かれているどの人、どの農民だったのかが問題でしょう。羅須地人協会時代は云って見ればそんなに長い期間ではなかった。だが「境内」の中の暗さの面のみを誇大視されるとするならば、そして協会の地近辺の農民とをも総て同一視されるような読みでしたならば、賢治自身の「農」としての活動と「協会」の存在意義が過少に読まれてしまわれませんでしょうか。実りの部分が見えてこないのではないかと考えるものです。かつて賢治研究者には、「春と修羅 第三集」のなかの作品が、具体的に何処の情景を読まれているかを、それ程に研究されずじまいの感があったように思います。最近東京では「賢治研究会」の読書会が、本格的に読まれていて、その成果が期待されます。賢治の詩から読む心情及び思想や世界観も大事でしょうが、わたくしは何よりも現在行はれている[宮澤賢治研究会]「http://kenji-society.com/」のような本格的な読書会での読みが、最も大事だと思います。

 羅須地人協会の詩碑近辺についてのお話は、今後に遺された課題です。次回に譲りたいと思います。

2006-06-05

羅須地人協会時代寸評

 「宮沢賢治の詩の世界」を拝見してから、わたくしは迷路に入り過ぎたようです。だいぶ「境内」から逸れて寄り道をしてしまいました。それは宮沢賢治が「そのまっくらな巨きなもの」と詠んだ「境内」が、当時どんな情景であったのか、背景を少しでも辿って視たかったからなのです。

 ここ迄で引用しまたした各諸先生方の諸論考は、皆さんでご覧になっていただくとして、そろそろわたくしの想いを述べなければならないところまできたと思います。賢治と農民との関係で、最も多くとりざたされて来た「そのまっくらな巨きなもの」の「境内」なる作品は、「同心町の夜明けがた」より先行発想がなされたものであった。「境内」は昭和二年四月二十一日「同心町の夜明けがた」の作られた日よりも前の作品であるということです。<入沢氏は「賢治の羅須地人協会時代(大正13-昭和3)の作とみられていて」とまいおきをしているが、制作年月日は不問のままです> 「境内」は昭和二年に大改築をしていますので、その後でしたなら、またその最中でしたなら、新しくなった境内としてなんらそれに触れらていないということは考えられません。、和算額等の記されている事がらから視ても、仁王門新築工事や五十年大祭に触れていないのです。ですから昭和二年以前の作品と考えざるをえません。「大正十五年八月十七日、岩手日報には{稗貫太田清水、観音縁日、大変な参詣人}という見出しで次のような記事が掲載されている。」と、この日の盛況ぶりが報じられたということです。 つづく

2006-06-04

寄道

 今回も少しまた寄り道をします。寄り道・道草、こんな楽しいことって子供のころはよくありました、いいえ、今でも買い物・井戸端とそれに似たようなことって皆さん、どうです?。おありですよね。  これからのお話は賢治とは関係がない清水寺の杉林のはなしです。

 浄法寺町のT寺の屋敷林が、住職の遊興費のために丸裸になったとのことですが、あの太田の清水さんの屋敷林千年杉も、それと似たようなかたちで、ときの住職によって戦後まもなく伐られたとの風説がありました。わたくしはあの素晴らしい杉林がなくなった事が残念でなりませんでした。あそこの杉を伐った「会社」のかたに最近お会いしましたので、失礼とは存じましたが、意を決してお聞きしました。そのことをここでおはなしいたします。

 こういう事だったそうです。戦時中、それも戦争末期のころでしたが、国家総動員法とかで、梵鐘も屋敷林も「献納」と言うことで、国のほうに納める事になっていた。しかし、あの大木を機械力も人手もなかった時代だったので、そうこうしているうちに終戦になった。 ところがどういう訳か湯口や湯本の人たちに、米1表幾らという形で杉の納め先が決まっていたとの事です。杉の直径が七尺から八尺程の物も有ったそうですが、それは戸板用に使用されたのが大部分、他は建築資材となった。父の手帳が有ったので、最近だが、戸板は現在どうなっているか探し歩いたが、旧家は総て建て直されたために皆無であったとの事でした。唯一清水寺の屋敷林が使用されて残っているのは、谷村新興の社長の家だけとの事でした。金の流れは私には解からないとの事でした。落雷やら空胴のためなどの杉も結構多かったとも話されました。ご住職の遊興費に使われたとは思はない、とのお話でしたが、いまいちわたくしにはよく理解できませんでした。あれも一つの時代だったのでしょうか。平地でのあのような杉林は二度と見られないのが残念ですね。あの辺の水の流れも変わったと、農家の古老の方がささやかれていたのが印象的でした。

2006-06-02

高村山荘について

 昨日は、「境内」の作品は作者がいつごろ清水寺に行かれたのかを考えてみたのでしたが、結論をだすまえに、ここで少し寄り道をしてみたいと思います。

 「その南の三日月形の村(2)」に、清水寺についてお書きになられたあとに、高村光太郎に触れているところがあります。{「高村山荘」は、高村光太郎が宮澤政次郎氏の招きによって昭和二十年から七年間を暮らした小さな庵です」}と記されていますが、高村光太郎は戦災に遭われた為に、たしかに一時期宮澤家にご滞在なされていたのですが、宮澤家も終戦まじかに戦災で消失。そのため佐藤隆房氏のところに<避難>していたのを、佐藤勝治氏が、「高村山荘」に招聘したのでした。佐藤勝治氏は、山荘の隣にあった分教場の先生で<分教場が先にあったのですが>、 ここは「風の又三郎」に出て来るような小さな分教場でした。一時期は奥さんと二人で子供らをみていたようですよ。あげあしとりにお感じになられましたならご容赦下さい。わたくしは佐藤勝治さんの為にと考えるものです。

2006-06-01

花巻・清水寺との関連で

 宮沢賢治の「口語詩稿」に収められている「境内」は、作者が何時ごろ清水寺に行った時の事なのでしょうか。日付も有りませんし、確たる証拠も無いのですが、次の事は考えられるのではと思いますがどんなものでしょう。作者は一人で清水寺に行ったのですが、下書き稿に記されている「みんな食事もすんだらしく/また改めてごぼんごぼんとどらをたたいたり/樹にこだまさせて拍手をうったり/林のなかはにぎやかになった」とあります。それから作者自身も「おれも飯でも握ってもってくるとよかった」ともありますから、何かの行事のときに行かれたのでしょう。昭和のはじめころの太田の清水さんは、いろいろと行事があったが、その行事のときには大勢の参拝者でにぎやかであったと「清水寺研究」にみられます。{平成十三年三月十三日発行(古刹文書研究会)}の「清水寺研究」第三号に、「昭和二年十一月に当国三十三所観世音像を仁王門楼上に奉安」とありますが、「境内」の詩の内容からみて十一月では無理なのではないかと思われます。しかもその法要当日は雨だったそうです。それから翌年の昭和三年八月十五日(旧歴七月一日)から二十四日までの十日間、五十年大祭が行われていますが、この大祭はたいへんな賑わいであったとのことです。そこではお店なども出ていますから、「石パン」などは必要ありませんね。「山門の下や石碑に腰かけて/割合ひっそりとしているのは/いま盛んにたべているのだ/約束をしてみんな弁当をもち出して」とあり、次に「じぶんの家の近辺を/ふだんはあるかないやうなあちこちの田の隅まで/仲間といっしょにまはってあるく/ちょっと異様な気持ちだろう」。さてここで、山門工事に来ている人々でしたならと考えたなら、どうでしょうか。工事を行っている人たちは、ふだんは農業を行っている人たちだったからです。それから写真で見ますと「どら」は観音堂にあったのすから、工事中でも「どら」にかんしては問題はありませんね。観音堂の屋根葺き替え工事と平行して、山門である仁王門新築工事が行われているのですが、「観音堂の工期は昭和二年旧七月九日から八月六日の約一ヶ月間」とありますから、この期間でもよろしいのではと思いますがどうでしょうか。この人たちが「田の隅まで」仲間と回って見て歩くなど、考えられませんか。しかしやっぱり仁王門工事の人びとではなく、参拝者でよいのでしょう。翌年の大祭をまえにしてでも、清水さんの縁日でしたなら良いと考えてもみてどうでしょう。わたくしはそれしか思い当たりません。 つづく

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