羅須地人協会時代寸評
「宮沢賢治の詩の世界」を拝見してから、わたくしは迷路に入り過ぎたようです。だいぶ「境内」から逸れて寄り道をしてしまいました。それは宮沢賢治が「そのまっくらな巨きなもの」と詠んだ「境内」が、当時どんな情景であったのか、背景を少しでも辿って視たかったからなのです。
ここ迄で引用しまたした各諸先生方の諸論考は、皆さんでご覧になっていただくとして、そろそろわたくしの想いを述べなければならないところまできたと思います。賢治と農民との関係で、最も多くとりざたされて来た「そのまっくらな巨きなもの」の「境内」なる作品は、「同心町の夜明けがた」より先行発想がなされたものであった。「境内」は昭和二年四月二十一日「同心町の夜明けがた」の作られた日よりも前の作品であるということです。<入沢氏は「賢治の羅須地人協会時代(大正13-昭和3)の作とみられていて」とまいおきをしているが、制作年月日は不問のままです> 「境内」は昭和二年に大改築をしていますので、その後でしたなら、またその最中でしたなら、新しくなった境内としてなんらそれに触れらていないということは考えられません。、和算額等の記されている事がらから視ても、仁王門新築工事や五十年大祭に触れていないのです。ですから昭和二年以前の作品と考えざるをえません。「大正十五年八月十七日、岩手日報には{稗貫太田清水、観音縁日、大変な参詣人}という見出しで次のような記事が掲載されている。」と、この日の盛況ぶりが報じられたということです。 つづく
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