ヤジュルの悲しみ
あるお方から次のような有難いご指摘を受けました。 貴方の「宮澤賢治の詩から」の一連を読みました。{「宮澤賢治の詩の世界」の中の、5月14日 「その南の三日月形の村(2)」の何処のところの事が、貴方と考えているところが違うのか}と。その他にも有りましたが、取り敢えずこの点について、わたくしの考えを述べます。少し長文ですが、次に引用いたします。
1925年9月、翌春に農学校を退職するとすでに心に決めていた賢治は、ひそかに太田村を訪れて、そこにある廃屋の一つを自分の住居として借りられないか、村人と交渉してみたのではないしょうか。そしておそらく賢治は老人から冷たく断られ、結局は下根子にあった宮澤家別宅に移り住んで「羅須地人協会」を始めることになったのです。
以上は最後の行から約三十行程前のところです。わたくしは前にも記しましたが、賢治詩を読まれる方は、詩ですからどのようにお読みになられても一向にかまわないと思うのですが、「おそらく」と言う推定で「賢治は老人から冷たく断られたとの考えで、賢治と地域住民とを対立関係としての捕らえ方、見方をされることが如何なものかと考えるものです。其の事については、他でも記しましたのでここでは省きます。「立証」や「状況証拠」の言葉をお書きになされるお方ならば、少なくとも推定などでお書きになされますことはどんなものでしょう。「宮澤賢治の詩の世界」はたくさんの方がお読みになって居られます。「高村山荘」のような記され方をなされても困ると考えるものです。
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