寺と鳥居
賢治の詩「春と修羅 第四集」中の「みんな食事もすんだらしく」の詩のなかに、絵馬(和算の額)と鳥居が記されています。清水さんを象徴する記載です。下図の{「清水寺境内内外地図面」花巻市立図書館所蔵}は、「清水寺研究 第二号」に掲載されている「地図」です。このなかに、鳥居がみられます。
「古くからの幡や絵馬の間に/声あげて声あげて慟哭したい/杉の梢を雲がすべり/鳥居はひるの野原にひらく」。以上が「そのまっくらな巨きなものを」の後半の詩篇です。
さて「羅須地人協会時代(大正十五~昭和三)の作とされ、農民との人間関係のなかで疎外され、傷つき、絶望へと傾斜して行く,賢治の暗く重い心情と自己励起をそこに読まれてきたもの。」と杉浦氏は観るのです。そして「そのまっくらな巨きなもの」「おれはどうにも動かせない」「結局おれではだめなのかなあ」とし、そして「同心町の夜あけがた」に見られるものが、「境内」に底流するものであったと言うのです。底流するということについては理解が出来ますが、時期や読まれているふたつの詩の場所及び情景を捨象してしまわれますと、その読み手の恣意性がはたらき過ぎませんでしょうか。「境内」なる作品は、桜の別荘で、賢治が独居自炊の始まる前の作品です。「境内」の作品の「暗さ」があって、桜での「暗さ」を説明されるという事は、桜での農民活動以前に、賢治自身がすでに「おれはどうにも動かせない」ものを抱いていた事になりましょう。それから次に大事だと思いますのは、羅須地人協会時代のどのような人々との間に「悪意・反感・疎外意識・嫉視」が有ったと言うのでしょうかと云う事です。詩作品は、お読みになる方はどのように読まれても、詩的言語で書かれているものですから読み手の自由でかまわないと、わたくしは思いますが、ただ、人との関係では、その関係は明らかでなければならないと思います。羅須地人協会時代のどんな人、詩の中に描かれているどの人、どの農民だったのかが問題でしょう。羅須地人協会時代は云って見ればそんなに長い期間ではなかった。だが「境内」の中の暗さの面のみを誇大視されるとするならば、そして協会の地近辺の農民とをも総て同一視されるような読みでしたならば、賢治自身の「農」としての活動と「協会」の存在意義が過少に読まれてしまわれませんでしょうか。実りの部分が見えてこないのではないかと考えるものです。かつて賢治研究者には、「春と修羅 第三集」のなかの作品が、具体的に何処の情景を読まれているかを、それ程に研究されずじまいの感があったように思います。最近東京では「賢治研究会」の読書会が、本格的に読まれていて、その成果が期待されます。賢治の詩から読む心情及び思想や世界観も大事でしょうが、わたくしは何よりも現在行はれている[宮澤賢治研究会]「http://kenji-society.com/」のような本格的な読書会での読みが、最も大事だと思います。
羅須地人協会の詩碑近辺についてのお話は、今後に遺された課題です。次回に譲りたいと思います。
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