花巻・清水寺との関連で
宮沢賢治の「口語詩稿」に収められている「境内」は、作者が何時ごろ清水寺に行った時の事なのでしょうか。日付も有りませんし、確たる証拠も無いのですが、次の事は考えられるのではと思いますがどんなものでしょう。作者は一人で清水寺に行ったのですが、下書き稿に記されている「みんな食事もすんだらしく/また改めてごぼんごぼんとどらをたたいたり/樹にこだまさせて拍手をうったり/林のなかはにぎやかになった」とあります。それから作者自身も「おれも飯でも握ってもってくるとよかった」ともありますから、何かの行事のときに行かれたのでしょう。昭和のはじめころの太田の清水さんは、いろいろと行事があったが、その行事のときには大勢の参拝者でにぎやかであったと「清水寺研究」にみられます。{平成十三年三月十三日発行(古刹文書研究会)}の「清水寺研究」第三号に、「昭和二年十一月に当国三十三所観世音像を仁王門楼上に奉安」とありますが、「境内」の詩の内容からみて十一月では無理なのではないかと思われます。しかもその法要当日は雨だったそうです。それから翌年の昭和三年八月十五日(旧歴七月一日)から二十四日までの十日間、五十年大祭が行われていますが、この大祭はたいへんな賑わいであったとのことです。そこではお店なども出ていますから、「石パン」などは必要ありませんね。「山門の下や石碑に腰かけて/割合ひっそりとしているのは/いま盛んにたべているのだ/約束をしてみんな弁当をもち出して」とあり、次に「じぶんの家の近辺を/ふだんはあるかないやうなあちこちの田の隅まで/仲間といっしょにまはってあるく/ちょっと異様な気持ちだろう」。さてここで、山門工事に来ている人々でしたならと考えたなら、どうでしょうか。工事を行っている人たちは、ふだんは農業を行っている人たちだったからです。それから写真で見ますと「どら」は観音堂にあったのすから、工事中でも「どら」にかんしては問題はありませんね。観音堂の屋根葺き替え工事と平行して、山門である仁王門新築工事が行われているのですが、「観音堂の工期は昭和二年旧七月九日から八月六日の約一ヶ月間」とありますから、この期間でもよろしいのではと思いますがどうでしょうか。この人たちが「田の隅まで」仲間と回って見て歩くなど、考えられませんか。しかしやっぱり仁王門工事の人びとではなく、参拝者でよいのでしょう。翌年の大祭をまえにしてでも、清水さんの縁日でしたなら良いと考えてもみてどうでしょう。わたくしはそれしか思い当たりません。 つづく
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