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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006-09-13

暗さの恐怖

 前回の「旱と自然法爾」の引用著書は、山下正男著「植物と哲学」からであった。

幼児体験と直接経験について考えるとき、見ていても見えていない、全然見てないんでもないが、現に見ている。見ていて、同時に見ていないという一面もある。それを考えた時に以下に教えられた。それに付いて西谷啓治は次のように話している。「不見と言う」と。「不見ということを見えずと言い、見ずと言う。だからほんとうに目を開くと言うか、目を開かせるということがあって、それが教えですね。仏教だと仏の教え、とくにお釈迦さんの教えということですから、やっぱりそれも仏法ということになりますけれどね。まあ、そういう教えを通して、見えるようになると。つまり仏教でいえば煩悩ということだけども、これは貪るとかね、怒りとか、それから痴というのは、これは無知ですね。まあ大まかに言って知情意という全体にわたって、そういう目が開いていない。無明ということですね。明るくない、光がないということですから。と同時にどこか閉じていて開けていないという。そういう感じのこと。心が開けていないということですね。そうすると見ていて見えない。」

 原体験から「見えてくるもの」を基底にしてこそが、内面の旅路の足跡になるのだろう。経験からの得るもの。しかし経験主義を排しつつも何かが標される。「農」と「念仏者」を考えつつこの項を閉じる。

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