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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006-09-20

大乗の教え

 私は祖母からのDNAをも含めて受けたであろう幾多のことがらがあった。

手を合わせることの教えとどうじに、洗礼を受けた宗教とは、いったいどんな宗教だったのであろうか。その事に付いての答えの前に、次のように考えさせられている。

 老い先のない今日になって、この私に所謂宗教の定義の問題は、大変困難な問題です。この事はさて置き、宗教を文化現象、社会現象として客観的に捉えてゆくのではなく、宗教を主体的に捉えての、かつ宗教一般に通じるような宗教の定義を規定することは可能なんでしょうかと言う事です。私は、そのことを試みるほど宗教一般には程遠い門外漢です。ただここで私の考えられることは、おそらく宗教には、少なくとも自己の安心、生死の透脱、自己という存在そのものの解決、といったことを目ざす宗教には、あるいは従来の自己に死に、一「転」して、新たな生命を恵まれた自己を生きる、という事理があるのではないかということです。

 禅者はしばしばキリスト教の信仰を、パウロの言「我もはや生くるにあらず、キリスト我にありて生くるなり」を珍重するとあります。私はそこに信仰の確信、宗教の本質を見出すのであると考えるものです。そのように、何らか、「転」の契機を不可欠とするのが、宗教と考えられるのではないでしょうか。大乗仏教の教えに、「従来の自我に死に切って、無我を証し、そこにおいて新たに自利 ・利他の主体として蘇るところに、宗教的「転」が有ると言うとのことです。『自我→無我→自利・利他の主体」という自己の「転=開」に、大乗の真義がある』という。そして 「大乗仏教というものは、様々な教説が用意されているけれども、畢竟、『自我→無我→自利・利他の主体』という展開に尽きると言い切ってしまってよいとかんが」えられるというのです。

 浄土教のように、他力を旨とするとしても、そこで救いにあずかるということは、ただそのままの自我が浄土の存在にまで拡充されるというのみでは、宗教的に末だしであるとのことです。むしろ他力に照被されることにおいて、今・此処の場に自我を頼む情識が解消し、同時に自利・利他の主体に翻身する、あるいは少なくともそのことを自分の生命と了解するのでなければ、大乗仏教として徹底しているとはいえないとのことです。(秘事念仏)を思考しつつ次回に続く

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