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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006-09-07

手を合わせる事

 朝、仏壇の前で手を合わせる事を、祖母から教わった。

教わったのではなく、祖母が何時もそうしていたからだったのかもしれない。

  私の「仏」(神)との出会いはこうして始まったのかと想う。

 先祖を敬うとか、何かに感謝をする心では無かったと想う。

 五歳ころの事だったと想うが、仏「神」を指示し、

証言するものであると言う不可欠の導師に、

祖母に連れられて行かれたことを覚えている。

 祖母は「篤信の人」であった。子供の私は、其のころ岩手の一部で盛んであった

浄土真宗の秘事法門「隠し念仏」の洗礼を受けることになった。

後で知った事だが、生後間もなく「オモトズケ」が有ったと言う。そして

今回の「オトリアゲ」の儀式、つまり洗礼を受けたと言うことだった。

何無阿弥陀仏 何無阿弥陀仏の連呼が、その人を救うと言う。以後身体に「仏」を

宿し、生きたままで「仏」となるというのである。

 正しい神認識を欠くとき、人生も文化も頽落するのかもしれない。

「隠し念仏」がもはや無意味だと言っているのではない。

念仏は仏を指示し、証言するものであるが、しかしそれは神認識のための

唯一絶対の根拠ではないと云うことだ。

 幼児期に受けた強烈な心的原事実とも言える「仏 我が身体に宿す」

との出会いは、私にどのような意味を持ったのであろう。

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