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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006年10月

2006-10-28

忠一さん

「春と修羅 第三集」で最も多く出場する人物は、「地人協会」の隣に住む伊藤忠一である。

 『738 はるかな作業 1926,9,10』に、作者が畑で「組合倉庫の地固め」のための、{ドンズキ突き}収穫歌合唱をイメージ的(?)に聞くのだが、「晩にはそこから忠一が/つかれて憤って帰ってくる」。ここにはじめて忠一が出場するのである。

 以下「第三集」の中をみてみよう。「甲助」として(1012)・[牧歌]・[もう二三べん]や、「忠作」としては(1017)だったり、「封介」としても(1046)・(730ノ2)・([白菜はもう])と、名まえが変わっているが、忠一は作中に最も多く取り上げられている人物である。まだ抜けているかもしれないのだが、これだけ多く取りあげられているのには、単なる隣人だけであっただけではなく、教え子であり、真摯に農業に励んでいる「地人協会員」青年であるからであったろう。清さんや克己さんそのほかの隣人人々が作中に出ずに。

 つぎに、賢治から忠一宛の書簡についてであるが、「殆んどあそこでははじめからおしまいまで病気(こころもからだも)みたいなもの」については、良くとり上げられるが、私は次のことも大事なことだと考える。「宗教のことはお説の通りの立場は大きなものでせう。けれどもそのほかにもいろいろの立場はあるかもしれません。」 

 「お説の通り」とあるのは、忠一が何かを賢治に自分の考えを延べ、それへの教導を求めたものであろう。「宗教のことは」とあるから、忠一のばあいここでは「念仏」宗教のことであったであろう。賢治は「けれどもそのほかにもいろいろの立場はあるかもしれません。」と、そして「法華経の本は」と説明してくれているのである。

 賢治は、「秘事法門」「隠し念仏」についてある意味で客観的にみていると私は思える。次回からはその事にも記していきたい。

2006-10-22

認定証

_088 高橋梵仙著 「かくし念仏考」[第二]

第25図 渋谷地派導師認定証

(原寸) 縦163×横117 

2006-10-20

「酉松」と「酉治」

「世の不正は、青年の無垢な心を揺さぶり,一途な正義感を点火させる。」 このような勇ましい事を書くのなら良いのだが、「羅須地人協会時代」の賢治とその対立者を書くのは気が重い。傷を負うものが出るからだ。本来ならば「春と修羅 第三集」を良く魅了されるだけでよいのだがと思う。

 「同心町」(向小路)の人も、桜の「隈」さんも小舟渡の「佐藤勘蔵」も「法印の孫娘」の「法印」なる人物も、「賢治に反感を持った対立者」さては「法華経信者」にたいする「隠し念仏の盛んな部落民の揶揄」その他もろもろの人々の綾なす時代に触れるのに、どうしてももう一人の人物に触れざるを得ない。

 洋々社の「宮澤賢治 第17号」に「羅須地人協会と最上協働村塾」なる論文を拝見した。この著者にご教示をお願いしたいことが幾つか有るが、御論考の最後にお書きになられている[注](3)にだけここでは触れたい。

 ご覧に為られておらない方もいらっしゃると思うので少々長いがお付き合い願いたい。

  『(3) この女性によれば、(参考文献に高橋千賀子「花巻市諏訪出身」様」とある)子供の誕生や、小学校へ入学するときなど、冠婚葬祭に関わらず何かあれば1軒の家に集まって拝んでいたそうである。この家は佐々木という農家であったが、代々部落民の祈祷所だったという。賢治のいう「大元締」の役目であろう。小さい頃の記憶であり、高校卒業後は家を離れ、その家の先代亡き後のことは分からないという。

 なお文献によれば、渋谷地派第5教区の昭和三十四年当時の励法員は佐々木酉松という人だが、前記の佐々木家主人と同一人物と思われる。 』

 この[注](3)は、単独でこれだけのものであるならばさほどの問題ではないが、この論文の何処のところの[注]なのかいまいちはっきり解らない。論文全体の為のものならば、恣意性にとんで紛らわしいものだが、ここではそれを問わない。

 ここでは佐々木酉松に触れよう。この論文の著者は、「渋谷地派第5教区の昭和三十四年当時の励法員は佐々木酉松」だと言う。そして「なお文献に寄れば」とある。どの文献によるのであろうか知りたい。

 高橋凡仙著「かくし念仏考 第二」397頁にも、前に写真で提示した「渋谷地 (全)」の9頁にも、第五教区は「花巻市諏訪 佐々木酉治」である。

 「渋谷地之系図写真」でも示しておいたが、稗貫郡花巻町下根子の四代佐々木酉松ー五代同 酉治」とある。大正の半ば過ぎからは所謂「渋谷地第五教区」の「隠し念仏」の実質的活動家は佐々木酉治とわたくしはみている。

 以前渋谷地派の「認定証」写真を載せておいたが、その次の頁に(かくし念仏考 第二『第25図』「認定證」に大正八年九月十四日 渋谷地本部 及川壽)とあるが,系図を見ると、「八代 及川 福蔵 は(昭和六年旧十月二十七日 往生)」とある。「九代 及川 寿」は、「認定証」にも見えるように、大正の終わり頃から昭和の初めには実質的支配者で、それと同じように酉治の場合も、賢治の「羅須地人協会時代」の「大元締」的役割をはたしていた。 

 何処のどの様な資料なのか、また賢治のどの作品に該当するものなかを問いたい。何々字典や誰かの書かれた「このように思う」からの引用などは、自分の「論」に恣意性が働き、思わぬところで「脱線」されることもあろう。そしてそれが誰かに迷惑も生じようというものだ。その考えは「壺中人」なるゆえであろうか。「ものをみていてもみえない。みているがみえない」「みえてみえない」 悲しい壺中人である。

(「酉治」に付いてはまたのきかいに記す。)

2006-10-18

「法印の孫娘」を読む

 「ほっそりとしたなで肩で/黒い雪袴(モッペ)とつまごをはい」た、農事の良く解った「透明で、できたら全部トーキーにでも撮って置きたいくら」いの娘。

 もう一人の登場人物は、容姿は「どてらを着たまま酔っていた/あの青ぶくれの大入道」とある。村人から聞いたら「バクチと濁酒」で名物人とのことであった。「稲の病気」などの書き物を見た場合は、立派な筆跡だが「どうしてばくちをやりだしたのか/或いは少し村の中では出来過ぎたので/つい横みちへそれたのか」といった「法印」なのである。

 「法印の」は、「巨きな松山の裾に/まるで公園のやうなきれいな芝の傾斜にあって/まっ黒な杉をめぐらし」た、山門みたいな物もあれば、白塗りの土蔵もある家だということだ。

 「校異」を見ると、「第二葉左下余白に、鉛筆で次のメモが記されている。」とあり、箱枠書きの中に、伊藤圭助、ききん、桜、池、娘ふたりと記されて有ると言う事だ。

 ここでは、「圭助」さんは誰かの云々ではなく、『法印の孫娘』と『憎むべき「隈」弁当を食ふ』との作品内容の違いを明らかにしたいのである。無論「文語詩」の [ 秘事念仏の大師匠 ] の[一]と[二] の内容の違いもであった。登場人物が明らかに違うのに、これ等の作品が、賢治研究者に一緒くたに読まれるのには何か分けありであろうか。

 (なを「法印の家」については、きかいがあったなら記したい。)

2006-10-16

[桜]の治サさん

写真はNo_026_1 『かくし念仏考 第二「渋谷地之系図」(331頁) 』の図(マウスポインタで拡大してご覧下さい)

「羅須地人協会時代」の賢治に最も近い{念仏信仰指導者}(矢印のところ)

伊藤治三郎は、「八景のジサさん」と呼ばれていて、「桜」のみならず「里川口町」にも所謂「隠し念仏」をひろめていた。

 以前「賢治記念館」に、学校の教師退職後、「市」から「派遣」されてお勤めをしていた大畠勉先生が、「治ささんが来ておがむんでもらったのを、覚えている」と語られた。氏は南城小学校の先生もされた「花農」出で、「桜」もよくご存知のかたであった。当時はたしか大工町がお住まいだったと思う。

 豊沢町に住んでいた佐藤勝治氏は、『やさしい研究 賢治文学のよろこび』(1987年夏)「賢治と私の生家のある花巻町豊沢町の思い出」(一)に、「・・・私は五、六歳の頃、かくし念仏で仏前で誓いを立てていました。」(46頁) と、当時のことをお書きになっている。

 伊藤治三郎は、娘に「婿」をとり、その子供に「寿」と命名した。No_022_1 治三郎は渋谷地派 九代「及川本師」として崇められていた及川 寿の名を、自分の孫につけるほどの信奉者だったのである。

 伊藤寿には、妹がいた。寿は昭和六年生まれである。

 「春と修羅 第三集」『詩稿補遺』の「法印の孫娘」は、桜の「秘事念仏者」治三郎との関連はなかろう。

2006-10-14

秘事念仏関連について

No_001_1 No_007

 文語詩 [秘事念仏の大師匠] をお読みのかたへ

9月8日NO1 NO2: 9月15日: 10月10日: 11日: 13日:

上記のようにご覧下さいます事をお願いします。

 No_012_1 下図の胆沢町史には、切支丹(第三節)もみられて、参考になるかもと思います。

 

2006-10-13

秘事念仏の大師匠

 宮澤賢治と「秘事念仏」を語るときに、文語詩稿 「五十篇」と「一百篇」にある同名の[ 秘事念仏の大師匠 ] の解明がかかせない。

 文語詩の五十篇 [ 一 ] は、口語詩『憎むべき「隈」弁当を食う」』下書稿(一)で、「文語詩化を試みた」。この下書稿(一)では「隈」が主題人物であったが、下書稿 (二)で伊藤治三郎に変わった(治三郎については後に記す)。

 詩の情景をとりあげて、場所の指定を云々してみても始まらないのかもしれないが、「北上岸の砂土に 」の手入れ稿に、「小松[の-削] と赤き萱の芽と」とある。ここは「下ノ畑」の北上川岸近辺である。

 大正のころ小舟渡は、上小舟渡・下小舟渡で、北上岸は下小舟渡の中川原とよばれ、のちの「イギリス海岸」の岸上で、情景的には合わない。文語詩「一百篇」[秘事念仏の大師匠](二)との違いは、作品内の情景もひとつの要因とみたい。(松田甚次郎著宮澤賢治名作選「昭和14年版254頁の写真も参照されたい。土手上は田畑と人家であった)

 「隈」こと伊藤熊蔵については、森荘己池著「宮澤賢治の肖像」の堀籠との対話(108~112)や、「隠念仏との小さな闘い」で語られているので省略する。森氏は、賢治の詩の解釈や、信仰と行動についていろいろと語られているが、「隠し念仏」についても誤った伝説化がなされ、私はそれを避けたいと考えるものである。

 文語詩「一百編」[ 秘事念仏の大師匠] (二)については前に記したのでそちらを見られたい。

2006-10-11

宮澤賢治と「かくし念仏」

 『胆沢町史 民族編2』に、<第一節 かくし念仏(御内法) 五 鍵屋系各派法系図考>[京都鍵屋系法系図考] に、二十八代 鍵屋梵仙の名がある(403頁)。『かくし念仏考』の著者高橋梵仙である。『かくし念仏考』は、「第一」は昭和三十一年に、「第二」は昭和四十一年に日本学術振興会から出た。

 『「胆沢町史」 [ 渋谷地派法系図考 ] 』に、「九世 寿」「十世 忠雄」(405頁)の名がある。『かくし念仏考 第二』332頁の「系図」にも、「九代 俗名 及川寿」が視られ、331頁の同じ「系図」に、高木長吉配下に下根子「四代 佐々木酉松ー五代 同 酉治」とある。

 佐々木酉治は、桜の西隣 諏訪の人で、『かくし念仏考 第二の397頁にも記されているが、第五教区区長で、五教区導師に、桜の{八景}に、伊藤治三郎が居て「系図」にも出ている(331頁)。

 賢治の「春と修羅 第三集」の時期に係わりのあったかくし念仏者は、伊藤治三郎で、門屋光昭著『鬼と鹿と宮澤賢治』の151頁の「花巻南部は第五区に属し、励法員は花巻市諏訪の佐々木酉松」とあるが、門屋は残念ながら「酉松」も「酉治」も伊藤治三郎もよく解からなかった。

 賢治の「春と修羅 第三集」に書かれている伊藤治三郎との関連詩については、順次記す。

2006-10-10

「隈」について

 八月十五日の「幼児体験」の思い出から、宮澤賢治の『春と修羅 第三集』に触れて来たが、羅須地人協会の地 「桜の人々」に触れない訳にはいかない。「隠し念仏」と「村人」についてである。

 「隠し念仏」の指導者と、所謂一般の「村人」とを一緒くたに視ることからは、この時代の賢治の活動は正しくは見えてこない。

 「桜の人々」は、賢治の「羅須地人協会」時代に、「隠し念仏」の渋谷地派の勢力範囲内にあったが、誰がどの様に活動していたかについては、従来の賢治研究者には把握されずにまことしやかに記されている。しかも「春と修羅 第三集」の個々の作品の土地勘を無視した賢治研究者には、あきれ果ててしまう。

 「春と修羅 詩稿補遺」の『憎むべき「隈」弁当を食う』の詩に記されている「隈」は、筑摩書房の<賢治全集別巻『草野心平編 宮澤賢治研究』(昭和三十三年八月十五日発行)に「先生と私達」を書かれた伊藤克己氏の父である。詩の題材の「隈」は、伊藤熊蔵であるが、秘事念仏の大師匠」でも、「元真斎」でもない。『「饗宴」の舞台』になった家の当主である。森荘己池「宮澤賢治の肖像」に記されている「隠し念仏」者を、『「隈さん」を氷山の頂点』と見るのは、恣意的観念で詩の曲解である。

 桜での『隠し念仏』の「指導者」については、次回に記す。

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