フォト
無料ブログはココログ

賢治参考図書

  • Img_0215
    21年は一市は花巻村です。

« 「法印の孫娘」を読む | トップページ | 認定証 »

2006-10-20

「酉松」と「酉治」

「世の不正は、青年の無垢な心を揺さぶり,一途な正義感を点火させる。」 このような勇ましい事を書くのなら良いのだが、「羅須地人協会時代」の賢治とその対立者を書くのは気が重い。傷を負うものが出るからだ。本来ならば「春と修羅 第三集」を良く魅了されるだけでよいのだがと思う。

 「同心町」(向小路)の人も、桜の「隈」さんも小舟渡の「佐藤勘蔵」も「法印の孫娘」の「法印」なる人物も、「賢治に反感を持った対立者」さては「法華経信者」にたいする「隠し念仏の盛んな部落民の揶揄」その他もろもろの人々の綾なす時代に触れるのに、どうしてももう一人の人物に触れざるを得ない。

 洋々社の「宮澤賢治 第17号」に「羅須地人協会と最上協働村塾」なる論文を拝見した。この著者にご教示をお願いしたいことが幾つか有るが、御論考の最後にお書きになられている[注](3)にだけここでは触れたい。

 ご覧に為られておらない方もいらっしゃると思うので少々長いがお付き合い願いたい。

  『(3) この女性によれば、(参考文献に高橋千賀子「花巻市諏訪出身」様」とある)子供の誕生や、小学校へ入学するときなど、冠婚葬祭に関わらず何かあれば1軒の家に集まって拝んでいたそうである。この家は佐々木という農家であったが、代々部落民の祈祷所だったという。賢治のいう「大元締」の役目であろう。小さい頃の記憶であり、高校卒業後は家を離れ、その家の先代亡き後のことは分からないという。

 なお文献によれば、渋谷地派第5教区の昭和三十四年当時の励法員は佐々木酉松という人だが、前記の佐々木家主人と同一人物と思われる。 』

 この[注](3)は、単独でこれだけのものであるならばさほどの問題ではないが、この論文の何処のところの[注]なのかいまいちはっきり解らない。論文全体の為のものならば、恣意性にとんで紛らわしいものだが、ここではそれを問わない。

 ここでは佐々木酉松に触れよう。この論文の著者は、「渋谷地派第5教区の昭和三十四年当時の励法員は佐々木酉松」だと言う。そして「なお文献に寄れば」とある。どの文献によるのであろうか知りたい。

 高橋凡仙著「かくし念仏考 第二」397頁にも、前に写真で提示した「渋谷地 (全)」の9頁にも、第五教区は「花巻市諏訪 佐々木酉治」である。

 「渋谷地之系図写真」でも示しておいたが、稗貫郡花巻町下根子の四代佐々木酉松ー五代同 酉治」とある。大正の半ば過ぎからは所謂「渋谷地第五教区」の「隠し念仏」の実質的活動家は佐々木酉治とわたくしはみている。

 以前渋谷地派の「認定証」写真を載せておいたが、その次の頁に(かくし念仏考 第二『第25図』「認定證」に大正八年九月十四日 渋谷地本部 及川壽)とあるが,系図を見ると、「八代 及川 福蔵 は(昭和六年旧十月二十七日 往生)」とある。「九代 及川 寿」は、「認定証」にも見えるように、大正の終わり頃から昭和の初めには実質的支配者で、それと同じように酉治の場合も、賢治の「羅須地人協会時代」の「大元締」的役割をはたしていた。 

 何処のどの様な資料なのか、また賢治のどの作品に該当するものなかを問いたい。何々字典や誰かの書かれた「このように思う」からの引用などは、自分の「論」に恣意性が働き、思わぬところで「脱線」されることもあろう。そしてそれが誰かに迷惑も生じようというものだ。その考えは「壺中人」なるゆえであろうか。「ものをみていてもみえない。みているがみえない」「みえてみえない」 悲しい壺中人である。

(「酉治」に付いてはまたのきかいに記す。)

« 「法印の孫娘」を読む | トップページ | 認定証 »

宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/175783/12352404

この記事へのトラックバック一覧です: 「酉松」と「酉治」:

« 「法印の孫娘」を読む | トップページ | 認定証 »