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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006年11月

2006-11-25

下ノ畑再説

 「下ノ畑」の記事に、ある方からご質問がありました。御礼とお答えを申し上げます。

 「収穫した作物をどのように処分したのでしょうか。『レアカー』では到底運びきれない量でしょう」と記しました。

 これに対しまして、「きゃべつでも、花でも『りやかー』でなら運べるでしょう」とのご指摘がありました。これについてお答えします。

 _001 ご存知でしょうが、『雨ニモマケズ』の詩碑のあります「羅須地人協会」南側の道は、一部砂利道と粘土質の坂道で、荷物を積んで運ぶには、キャベツや白菜でしたら、一人では少しの荷物でも上るのに大変な坂道でした。しかも相当な量を、上町の「大正屋」まで運ぶとなりますと、結構な時間が掛かります。

「大正屋」は、花も野菜も売買していました。キャベツを何処かの家にあげたという事は聞きませんし、仮に1反歩(一町歩も有ると言う人も居るのですから)で作られた野菜は、「大正屋」さんにでもお持ちする以外は、考えがつきません。

 どちらにしましても、なかなかの「難問」ですね。わたしは、キャベツも白菜も大根などのような重量のある野菜は、そんなに多くは作っていなかったと考えています。

 あるいは[ 盗まれた白菜の根へ ] に詠われている「日本思想 禰榮主義」者の嘲弄者と、作者の背景などを垣間見るひとつの材料になるのではないでしょうか。

 写真は「日本地理体系」改造社昭和五年十一月発行からのもので、鐘突き堂下から写されたものでしょう。下の長屋や賢治の通った「西洋館」がみえますが、ここの所だけは、昭和二十五年まではそのままでした。豊沢町は戦災で消失しました。西洋館の豊沢町側に「大正屋」さんが有った。豊沢町の突き当たりの感じの所です。

2006-11-24

凍った桑の畑の中でおきた事

_002_3 「心に引掛つた作品なので、今回はそれを取り上げさせていたゞく。」とある小沢氏の『詩篇「夜」鑑賞』の(語註)解説は、適切なもので、語註解説に、熊さんや権兵衛の名が出たところで私はドキッとした。この事実を知っているかと思えたからである。

 だがしかし小沢氏は、「東北の やりきれない貧しさの象徴のようだ」として、「日本残酷物語」にある、『嬰児は恐らく「間引き」であろうという私の判断も力を得た思いがした』というのだ。

 結論から話そう。この嬰児殺しは残念ながら実際に有った事である。それは貧しさからでも無く、間引きでもなかったのである。賢治のこの「鉛いろした月光のなかに」と、その関連作品「夜」は、何かを意図として詠んだ作品では無いためか、文語詩には三行の書きかけで終っている。

 この詩に詠まれている事実は、あまりにも悲惨な出来事である。 だがもう少し詳しく話そう。

 「この崖上の部落」つまり「桜」での出来事であるが、「嫌疑で連れて行かれたり」したなかには、「赤児を あそこの凍った河原」に「捨てた」だけではなく、隠滅の為に焼却の手助けをした未成年者がいた。しかもその事が発覚したのである。歳わも行かない二人は、警察から間もなく帰されたが、当の本人は暫らく留め置かれた。男子二人を残して彼女の主人は他界していた。わたしはこの人については、この人が六十過ぎてからしか知らないのだが、身長もあり容姿端麗、さぞ若いときはと思われた。嘆願や陳情は「部落」ぐるみで行なわれ、差し入れなども行なわれたのである。彼女の生家も、当時の家も貧しさなどは微塵も感じられない。

 焼却には、麻殻(おがらとも云う)がよく、豆がらは炭化物がのこるし、麦わらでは、完全に灰にならないものが雪上に飛び落ちて、痕跡が目立つ。隠滅の為の焼却には麻がらが一番良かった。麻は何処の家でも栽培していたのである。

 しかもこの続きがある。わたしは興味本位で書いているのではない。「春と修羅 第三集」には、フィクションと事実が賢治の読者に良くみきはめて欲しいのであるからだ。

悲惨

  [ 鉛いろした月光のなかに ]

 鉛いろした月光のなかに

 みどりの巨きな犀ともまがふ

 こんな巨きな松の枝が

 そこにもここにも落ちているのは

 このごろのみぞれのために

 上の大きな梢から

 どしゃどしゃ欠いて落とされたのだ

 その松なみの巨きな影と

 草地を覆う月しろの網

 あそこの凍った河原の上へ

 はだかのまゝの赤児が捨ててあったので

 この崖上の部落から

 嫌疑で連れて行かれたり

 みんなで陳情したりした

 それもはるか昔のやう

 それからちゃうど一月たって

 凍った二月の末の晩

 誰か女が激しく泣いて

 何か名前を呼びながら

 あの崖下を川へ走って行ったのだった

 赤児にひかれたその母が

 川へ走っていくのだらうと

 はね起きて戸をあけたとき

 誰か男が追ひついて

 なだめて帰るけはひがした

 女はしゃくりあげながら

 凍った桑の畑のなかを

 こっちへ帰って来るようすから

 あとはけはいも聞こえなかった

 それさへもっと昔のようだ

 いまもう雪はいちめん消えて

 川水はそらと同じ鼠いろに

 音なく南へ滑って行けば

 その東では五輪峠のちゞれた風や

 泣きだしそうな甘ったるい雲が

 へりはぼんやりちゞれてかゝる

 そのこっちでは暗い川面を

 千鳥が啼いて溯っている

 何べん生れて

 何べん凍えて死んだよと

 鳥が歌っているようだ

 川かみは蝋のやうなまっ白なもやで

 山山のかたちも見えず

 ぼんやり赤い町の火照りの下から

 あわたゞしく鳴く犬の声と

 ふたゝびつめたい破調にかはり

 松をざあざあ云はせる風と

 この詩は、小沢俊郎氏が『詩篇「夜」鑑賞』で読まれている。(四次元126号)

この詩篇で、「春と修羅 第三集」をわたくしは終りにしたい。どこまでもぬかる路にはまって身も心も「悲惨」その者である。先にかすかな光が観えたかと思えども、あまりにも悲しいことが詠まれている賢治が、やりきれなくなるのである。

    つづく

2006-11-23

「蜜醸」

『春と修羅 詩稿補遺』に、「蜜醸」という詩がある。校本全集の校異に(580P)、『本篇を文語詩に改作したものが、第五巻所収「[林の中の芝小屋に]下書き(1)である。』とある。

 此処で説明をしたいのは、文語詩に改作されたのは「蜜醸」かどうかである。

「蜜醸」に出ている人物「こっそりひとり立っている」さん。此処の詩の場所も大体見当が付くが、今ならまだ桜の古老なら誰でも「利ッコさん」と言ったら知っているであろう。お断りをしておくが、当時は「蜜醸」は何処の家庭でも、何かの行事には必要欠くべからざるもので、特別の家だけではなかったのである。

 「蜜醸」の『(1)下書き(一)』は「林」で、『(2)下書き(二)』は「蜜醸」である。校異の説明が『なお、本稿表の下隅に鉛筆でやや大きく「文語」と記入されており、裏面左半、上よりには、鉛筆で、文語詩[林の中の芝小屋に]下書き(一)が記されている。』とある。まだ説明がなお続くのであるが、「文語詩[林の中の芝小屋に]」は、詩の内容からみて「蜜醸」とは無関係であろう。

 「かくし念仏」との関連で上記のことを確認して置きたいのである。

 注 「林の中の芝小屋に」下書き(1)と、「蜜醸」(1)下書き(一)は編集者が同じ系列にしている。下書き(一)は同じであるとしても、「林の中の芝小屋に」の「(2)下書き(二)」で、「法印の孫娘」の下書きがある方を採られたなら、「校異」での説明が分かり良かったと思はれる。くどい様だが、どちらも下書き(一)では同じ内容であるが、文語詩『林の中の芝小屋に』と、『蜜醸』は内容の違う作品である。

2006-11-07

秘事法門二題

「春と修羅 第二集」晴天恣意の先駆形に『水沢臨時緯度観測所にて』がある。所長は木村栄博士で、博士の同郷人に同じお歳の「世界の禅者」鈴木大拙がいますが、大拙がどこかで語っていた。「わしよりもできたのが木村だった。木村はいつも一番でわしは二番だった」と。

 秋月龍眠著作集7に、「鈴木大拙の生涯と思想」があるが、そのなかに秘事法門に関して書かれているところがある。(21頁)

 鈴木大拙は、無言のうちに母から宗教的な感化を受けたとあり、以下のように秋月氏が書かれている。また少々長いがお付き合いを、お願い致します。

 「秘事法門の洗礼を受ける

 先生はまたこの母によって、少年の日に浄土真宗 秘事法門,の洗礼を受けました。「わたしの子供のころ、加賀には秘事法門がさかんに行なわれていたらしいのだな。父がなくなって、わしが七つか八つ、十は出んだろう。母親がある時その仲間に入ったらしいのだ。それで、わしは秘事法門の洗礼を受けたほうだ。

 そのやり方は、いまでもおぼえておるが、あれは自分の家であったようだな。母親の友だちがきて、仏壇にお灯明をあげて、お経は読んだかどうかわすれたが、先達みたいな男がいて、『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』となんべんもやたらにとなえさせる。わしがとなえたか、その男がいうたかわすれたが、ともかく南無阿弥陀仏をやたらととなえながら、膝をついて坐っているわしの上半身を持って、その男が前後にゆすぶるのだ。

 三十分か一時間か、どのくらいやったか時間をおぼえているといいのだが、そうしているうちに、いい加減のところにその運動をひょっと止めてしまう。そのときに、心理的な変化が出るのだ。それまでのリズミック・モーション(律動的運動)が破れたひょうしに、そこでどうか心理に変化が起こって、ある感覚が出る。『それ、助かった』というわけだ」。

 「かくし念仏」渋谷地派とのやり方とは違いはあるが、何れも「真宗異議異安心」である。

  ここでもう一つに触れたい。

  五来重(対談)「宗教民俗集成」8に、親鸞と庶民信仰ー野間宏との対談がある。

最近ある文学者が、「隠れ念仏」(九州鹿児島地方の)と「かくし念仏」を取り上げているが、野間の二番煎じになられないことを心から願いたいものだ。

 野間は賢治とは関連が無いので詳しいことは五来との対談や、野間の「歎異抄」論関連を、お読みしていただくとして、ここでは村の共同体の一員になる加入儀礼あるいは通過儀礼を興味本位にとりあげられるのだけではなくて、それだけとは言わないが、できうることならば田中智学著「日蓮聖人乃教義」のなかの第三編 第十七章 四 即身成仏ノ妙業 『受戒の式』を、隠し念仏との関連で、賢治はどのように観ていたのか。どのように理解していたのか。彼のところには「日蓮より観たる親鸞」なる著書もあったのだから。

2006-11-02

外台

 余談だが「外台」に触れよう。

 「外台」については、賢治研究者なら何方もご存知でしょうが、江戸期から明治二十二年までは外台村で、その後大正十二年には稗貫郡花巻川口町大字下根子字外台。現在は花巻市外台と外台川原である。

 さて、せっかくだから賢治の詩にも触れよう。「春と修羅 第三集 詩稿補遺」 『 来訪 』に、ここは「ちょうど台地のとっぱななので・・下台ぢゅうの羽虫」やら「まるで鳥みたいな赤い蛾」「鳥には灯台の役割」をはたすところだと言う。このような詩がある。

 この『来訪』の詩句のなかの、下台に[ とだい ] のルビが振られている。凡例の六の(6)に、「難読漢字には適宜ルビを補い、[  ] で括って、作者自身の付けたルビと区別する。」とある。編集氏の親切というものである。これまでのものには何の問題も無い。しかしである。

 詩的言語で書かれているものは「下台」でも「外台」でもその人の自由だが、『校本全集』の「伝記資料」「花巻付近概念図(大正初期)」では、地図上に幾ら概念図であっても「下台」ではいかがなものか。科学的言語であるべきところへ、詩的言語ではいかがか。ほんとうはこんな些細なことはどうでも良いことだ。これはあくまでも余談である。

2006-11-01

「下ノ畑」

 賢治の自耕地「下ノ畑」については、わたしは良く知らない。場所は知っているが、一帯どの位開墾をして、二年目にはどのような作物栽培をしていたのか。それを知りたい。ご存知の方は是非お教え願いたい。

 一説には、「先生が働いていた畑というのは、一町歩近くもあったと思います。」 これは菊池正氏の「賢治聞書」で、「私の近所に、伊藤与蔵さん」からの聞き書きだという。(2頁上段)

 「下ノ畑」は「近所の人たちでさえ耕作することを好まなかったようだ」とあるが、わたくしの実家の畑は直ぐ近くにあったので知っているが、そんなことは無い。良く耕しさえすれば、根菜類などにはよい土地柄であった。砂地の土地だからである。

 ただ賢治も心配しているように、稲作には少々難点があった。外台には田圃もあったがこの辺では砂地の為に、「ちょっとの水では、/みんなくぐってしまふからねえ」ということだ。「詩稿補遺 」の[ しばらくだった] の六連に、「上流から水をあげてきて/耕地整理をやるってねえ」とあるが、賢治亡き後に外台は「耕地整理」が行なわれ、「下ノ畑」すぐ北側に、北上川からの水揚げ場が造られ、モーターの唸りが聞かれ、「一反歩田」に水の供給が戦時中行なわれた。

 「畑には、アスパラガスやとうもろこし、白菜や野菜がつくられ、麦や大豆はつくられませんでした。」とのことだ。「一町歩」は無いとしても、花や野菜の耕作と同時に、収穫した作物をどのように処分したのでしょうか。「レヤカー」では到底運びきれない量でしょう。東京近辺でも「体験農場」があり、三十坪か五十坪の耕地の知人から、食べきれないからとして良く野菜をいただく。この話をしたら「それはとても考えられませんね」との事だった。

 普通の農家では、畑が二反歩もあったなら、三分の一ぐらいは蔬菜を栽培して 、残りの三分の二くらいは、春 麦の刈入れ後には大豆か小豆などを作付けしているのが普通と言うものと考えられるが、賢治の自耕地「下ノ畑」のこの辺がどうも小生には良く分からない。賢治の雑草との戦いはよく歌われているが、それにしても畑は少しの手抜きでも、見るも無残な作物と雑草の畑と化す。わたしには良く分からない。どなたかお教え願いたい。

増水

ここでしばらく「下ノ畑」近辺について触れたい。

忠一が「封介」として記されている『「詩稿補遺」[白菜はもう]』に、北上川が「増水」のため外台が水浸しになっていく様子が歌われている。「増水」は、北上川岸辺の賢治の「下ノ畑」のさらに下流の、獅子鼻からから逆流して来るのである。豊沢川の落ち合い付近の土手の決壊で外台は完全に水没することもある。対岸の、北上山地までの平地は、台地になっていて戦後間もなくにおきたアイオン台風のときに浸水があったのを記憶する。しかし外台は対岸より数メイトルも低いのである。

外台での浸水のしかたは、ひとつには北上川が古くは「地人協会」崖下直ぐの所を流れていたためである。賢治の詩碑の下の小川はカッパ沢からの小川も合流するのであるが、詩碑の崖下の北側・豊沢川方向に約百メイトル程の所にはその名も「古川」という古池があり、工兵隊の連中は手りゅう弾で魚をせしめて行ったこともある所だ。また、この下流、詩碑から見て、南に百五十メイトルくらいの所には、「まる小淵」があり、じゅんさいなどが取れたりした。この古川小川の源流は、豊沢川から工兵庁舎に行く上がり口の所(発動機船の止め場所・子供の水泳場所でもあった、少し坂上)に、滝清水神社の水量の多い湧き水が源流で、かっての古川支流が、いくつかの「沼」(南城小学校の下にも大きな「沼」があった)をへて、獅子鼻の下まで流れていた。豊沢川や北上川に堤防を作っても、外台の南側、つまり下流はがら空きであった。しかも、当時は、獅子鼻に北上川は激突して東にカーブしていた。増水の時には、激突した水流が西側の外台に、逆流してくるのである。

「下ノ畑」近辺は、詩碑の下側よりも高地で、「増水」のときに、北上川岸のほうに取り残された場合には、土手に沿ってほくじょうして、兵舎の上がり口(滝清水神社の所)まで急がなければ帰れなかった。

 つづく

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