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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006-11-01

増水

ここでしばらく「下ノ畑」近辺について触れたい。

忠一が「封介」として記されている『「詩稿補遺」[白菜はもう]』に、北上川が「増水」のため外台が水浸しになっていく様子が歌われている。「増水」は、北上川岸辺の賢治の「下ノ畑」のさらに下流の、獅子鼻からから逆流して来るのである。豊沢川の落ち合い付近の土手の決壊で外台は完全に水没することもある。対岸の、北上山地までの平地は、台地になっていて戦後間もなくにおきたアイオン台風のときに浸水があったのを記憶する。しかし外台は対岸より数メイトルも低いのである。

外台での浸水のしかたは、ひとつには北上川が古くは「地人協会」崖下直ぐの所を流れていたためである。賢治の詩碑の下の小川はカッパ沢からの小川も合流するのであるが、詩碑の崖下の北側・豊沢川方向に約百メイトル程の所にはその名も「古川」という古池があり、工兵隊の連中は手りゅう弾で魚をせしめて行ったこともある所だ。また、この下流、詩碑から見て、南に百五十メイトルくらいの所には、「まる小淵」があり、じゅんさいなどが取れたりした。この古川小川の源流は、豊沢川から工兵庁舎に行く上がり口の所(発動機船の止め場所・子供の水泳場所でもあった、少し坂上)に、滝清水神社の水量の多い湧き水が源流で、かっての古川支流が、いくつかの「沼」(南城小学校の下にも大きな「沼」があった)をへて、獅子鼻の下まで流れていた。豊沢川や北上川に堤防を作っても、外台の南側、つまり下流はがら空きであった。しかも、当時は、獅子鼻に北上川は激突して東にカーブしていた。増水の時には、激突した水流が西側の外台に、逆流してくるのである。

「下ノ畑」近辺は、詩碑の下側よりも高地で、「増水」のときに、北上川岸のほうに取り残された場合には、土手に沿ってほくじょうして、兵舎の上がり口(滝清水神社の所)まで急がなければ帰れなかった。

 つづく

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