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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2006-11-01

「下ノ畑」

 賢治の自耕地「下ノ畑」については、わたしは良く知らない。場所は知っているが、一帯どの位開墾をして、二年目にはどのような作物栽培をしていたのか。それを知りたい。ご存知の方は是非お教え願いたい。

 一説には、「先生が働いていた畑というのは、一町歩近くもあったと思います。」 これは菊池正氏の「賢治聞書」で、「私の近所に、伊藤与蔵さん」からの聞き書きだという。(2頁上段)

 「下ノ畑」は「近所の人たちでさえ耕作することを好まなかったようだ」とあるが、わたくしの実家の畑は直ぐ近くにあったので知っているが、そんなことは無い。良く耕しさえすれば、根菜類などにはよい土地柄であった。砂地の土地だからである。

 ただ賢治も心配しているように、稲作には少々難点があった。外台には田圃もあったがこの辺では砂地の為に、「ちょっとの水では、/みんなくぐってしまふからねえ」ということだ。「詩稿補遺 」の[ しばらくだった] の六連に、「上流から水をあげてきて/耕地整理をやるってねえ」とあるが、賢治亡き後に外台は「耕地整理」が行なわれ、「下ノ畑」すぐ北側に、北上川からの水揚げ場が造られ、モーターの唸りが聞かれ、「一反歩田」に水の供給が戦時中行なわれた。

 「畑には、アスパラガスやとうもろこし、白菜や野菜がつくられ、麦や大豆はつくられませんでした。」とのことだ。「一町歩」は無いとしても、花や野菜の耕作と同時に、収穫した作物をどのように処分したのでしょうか。「レヤカー」では到底運びきれない量でしょう。東京近辺でも「体験農場」があり、三十坪か五十坪の耕地の知人から、食べきれないからとして良く野菜をいただく。この話をしたら「それはとても考えられませんね」との事だった。

 普通の農家では、畑が二反歩もあったなら、三分の一ぐらいは蔬菜を栽培して 、残りの三分の二くらいは、春 麦の刈入れ後には大豆か小豆などを作付けしているのが普通と言うものと考えられるが、賢治の自耕地「下ノ畑」のこの辺がどうも小生には良く分からない。賢治の雑草との戦いはよく歌われているが、それにしても畑は少しの手抜きでも、見るも無残な作物と雑草の畑と化す。わたしには良く分からない。どなたかお教え願いたい。

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コメント

初めてコメントさせて頂きます。賢治に関する書き込み、大変興味深く、とくに土地勘の無い者には、とても勉強になります。ありがとうございます。
 じつは、小生もともとはW・モリスに興味があり、モリス研究から賢治との関係を持つようになりました(仙台に住んでいることもあります)。文学は素人でもあり、もっぱら「農民芸術論」「羅須地人協会」に限定された勉強しかしておりません。ただ、賢治の芸術思想、少し広く社会思想は、モリスの影響がとても大きいと思っています。
 偶然、ご指摘の「菊池正氏の<賢治聞書>」を、最近読む機会があり、大きな感銘を受けました。農民芸術にはモリスの影響が大きいこと、ロシア革命についての考え、天皇制について、etc賢治の考えの深さ、大きさを改めて認識させられた次第です。
 菊池氏の「聞書」には、例の畑について「近所の人たちでさえ耕作することを好まなかったようです」とありました。砂地で稲作には適さなかったようですね。賢治は、農学校の先生で、農学者だったから、普通の農家とは違って、実験的な畑作りをしていたかもしれませんね。色々考えられそうです。
 他にも「聞書」や「ノート」もありますが、今のうちに全部オープンにして、賢治を皆のものにしたいですね。その意味でも、この貴兄のブログも大変貴重な価値があると期待しています。今後とも宜しくお願いします。

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