ほんとのおれの仕事
「二集」の「序」には<水稲肥料の設計事務所>の計画を考えたり、そして「本当の百姓」になるための「農民芸術概論綱要」構想で、新しい農民文化の形成の志を立てて、桜に「羅須地人協会」の活動を始めるのである。
石鳥谷で「稲作肥料の設計事務所」を開設し、湯本や飯豊等では「農業技術の指導」をもおこなう。それから文化活動として、戦後に大学生がセツルメント活動を行なったような「子ども会」的な事を「独居自炊」の「別宅」ではじめたのである。
「本当の百姓」といっても、「カラ」と呼ばれていた北上河原の砂地で、小灌木や一部に熊笹とばらの小藪のところを開墾をしているのである。祖母に聞いた事があるが、「あそこは半分以上草パラで、月見草などが良く生えていた」と話していたが、定かではない。土手と一部が牧草を刈る場所でも有ったようだ。教え子の菊地信一に、開墾当時のことを語っているが、最初の頃は「やつと二坪ばかり、その次の日も二坪ちょっと・・」「今では十坪位は楽ですよ、」と話している。田は耕作に至らなかったのである。
「詩ノート」 1016 [ 黒つちからたつ ] 1927、3 、26 、
きみたちがみんな労農党になってから
それからほんとうのおれの仕事がはじまるのだ (前後略)
賢治は「羅須地人協会」を創めてから一年で、「仕事」との観念の明別の意識は、実践よりも極めて直感的な把握の仕方で先行的認識が行なわれていったものとみえる。仏教でいうレンマ、文字通り「把握」「先をとらえ」ていく複眼的思想である。胸中に秘めた意思表明が、俗に言うとどんどん沸いてくるのである。
次回から、「春と修羅 第三集」について、フィクションもみられるが、もう少し「場所」のことや「どこからの眺めか」を、事実に沿って読んでみたい。
「宮澤賢治」カテゴリの記事
- 斎藤宗次郎と宮沢賢治の通った校舎(2009.09.01)
- 加藤謙次郎「証言」(2007.12.16)
- { 濃い雲が二きれ }(2007.12.09)
- 広瀬正明氏の論考を読んで(2007.10.12)
- 『「牧歌」の背後』(2007.10.09)


賢治の第三芸術からすれば、モリスと同じ労働観=芸術観の継承・発展になるし、それは前出の多田氏の解釈も同じです。賢治とモリスを引き離すのは、賢治の羅須地人協会の活動への多田氏特有の見方があるように思います。政治への関わり方の問題です。
賢治の羅須地人協会の活動は、地人芸術との関連では、農民の文化芸術活動だし、日本型のアート&クラフト運動だったと思います。その点では、モリスのロンドン・ハマースミスの活動と、農民と工藝ギルド職人との差異はあっても、ほぼ同じように位置づけられると思うのです。芸術観=労働観に根ざした運動です。
政治との関わりは、時代も国も違うし、それぞれ複雑な事情があります。しかし、モリスも賢治も、多くの苦渋を舐め、挫折を経験しています。モリスが政治運動、賢治は非政治運動と区別するわけにもいかないと思います。
いずれにしても、モリスと賢治の2人を、政治とのかかわりで区別し、芸術観=労働観の差異、区別に結びつけるのは、かなり無理な解釈かと思います。多田説は、むしろ2人の宗教とのかかわりで、差異と対立を見ようとしておられるように思います。賢治が仏教、特に日蓮宗を深く信仰していた。これは言うまでもありません。問題はモリスです。
多田論文の最後で「このモリスに<政治>はあっても、<宗教>はなかった。事実,彼には宗教に対する関心などはこれっぽっちもなかったらしい。その逆に、賢治には<宗教>だけがあった。そこに両者の芸術観=労働観が相違する根本の理由があったといえるだろう。」
この指摘は、賢治に対してもそうでしょうが、モリスに対しては誤解です。モリスは、オックスフォードで、牧師になろうと勉強した。キリスト教をはじめ、宗教についしては、大変な博識です。宗教を捨てて、デザイナーになったわけではないし、むしろモリスのステンドグラスは、教会に沢山あります。中公クラシックス版『ユートピア便り』の解説にこんな指摘があります。
「社会主義を奉じ忍と情熱に生きたモリスと西欧の伝統とは切っても切れないキリスト教との関係である。」とのべ、教会装飾など紹介して、キリスト教社会主義との関連、その上「モリスの芸術論からしても、モリスは、‐‐‐<神様と同じ方向をみていた人>なのであろう」と。
2人を一緒にすべきではないでしょうが、モリスのファン、賢治の愛好家に誤解を与えたくないと思います。2人のファンが広がることを小生は願っています。
投稿: 大内秀明 | 2007-01-25 12:20