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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2007-01-12

本当の百姓

 賢治は農学校の職をやめて、桜の別荘で一人っきりの自炊生活を始めるとともに、「本当の百姓」になるため、自ら畑を耕し始めたとある。「本当の百姓」とは普通に考えてどのようなことだろう。

 百姓とは農業で生活をしている人、農業をいとなむ人、農民のことぐらいは誰でもご存知である。賢治の考える「本当の百姓」とはどんな百姓か。それは言わずとも知れた「農民芸術概論綱要」一連の内容の事である訳だ。

 「本当の百姓」になるために、冒頭で記したように桜で「自給自足経済を試みる」と研究者に記されている。「稲作挿話(未定稿)」では「陸羽百三十二号」などや、石鳥谷での「肥料相談」等をも行なう。だがすでに「春と修羅」第二集の「序」に「水稲肥料の設計事務所も出して」ともある。

 桜の人の中には、畑を耕して生活をする人を百姓であると思っているのが多かったと考えられる。なによりも「饗宴」がそれを物語っている。

 「下ノ畑」で作られた作物は、「物々交換」の気配は管見では見当たらない。毎日の生活に必要な「一日ニ玄米四合」はどこで入手したのだろう。「花」は良くくれてしまう。自分でも「半人前」とも考えている。つまり農作業は畑仕事よりも「米作り」が難儀であった。当時の農作業は現在とは違い、機械化が未発達の時代である。「部落」的共同体作業なくしては不可能であった。農作業実践の指導は桜での活動よりも、近在での活躍にならざるを得なかったのである。「三集」はそれを物語っていると思う。

 いま賢治とともに「本当の百姓」を、もう一度考えてみるべきであろう。 

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宮澤賢治」カテゴリの記事

コメント

「本当の百姓」「第三芸術」「ほんとのおれの仕事」、大変興味深い、又意義のある問題提起だと思います。少々拙見を書き込みさせて下さい。
 ご指摘のとうり、賢治が農学校を辞め、桜で羅須地人協会の活動を始める目的は、「本当の百姓」を目指したことが大きいと思います。ただ、農学校の教師生活と桜の生活を断ち切るのは疑問です。賢治は、学校での生徒への教育の限界を感じ、それを乗り越えるための決断だったと思います。その決断は、長く教師生活をしてきた経験から、よく解るし賢治の決断は立派だと思います。
 そして、「本当の百姓」は、当時の現にあった農民の生活ではなく、ユートピアン賢治の目指した農民、「地人」のそれだったと思います。その「地人」像は、ご指摘のとうり
「農民芸術概論綱要」、その書き込みなどから見て、大正デモクラシーの波に乗って入ってきた西欧の思想、その解説に依拠していたと思います。小生は、それらの中でも特にW・モリスからの影響、その「生活芸術」の思想から受けたものが大きかったと思います。当時紹介されていたモリスの芸術思想・社会思想、アート&クラフト運動を、賢治はかなり広く参考にしていたし、その継承発展を目指したのではないか。
 モリスの思想の継承発展として「農民芸術
概論」を読めば、その目次、綱要、書き込みに過ぎないにしても、賢治らしい詩人の直感力といえるでしょう、ポストモダンの芸術思想・社会思想の全体系の構想が浮かび上がってくるように思います。それはモリス以上に構想のスケルトンが確りした体系性を感じさせるもので、それがもし賢治の手で完成して公刊されたら、おそらく国際的にも高い歴史的な評価が下ったように思えてなりません。
 もう一つ、賢治は「農民芸術」を「地人芸術」として実践しようとした。地人は「都人」に対立するものでしょうから、明らかに都市と農村の対立、市場経済・商業主義に対立する共同体・地域主義として、新しい農業・農民の位置づけを「地人芸術」に求め、地人の叫びと訴えを生活実践しようとしたのではないか。
 こう考えると、「本当の百姓」は「下ノ畑」のたんなる「物々交換」のそれだけではないでしょう。「第三芸術」の実践にあったと思います。(続)

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