フォト
無料ブログはココログ

賢治参考図書

  • Img_0215
    21年は一市は花巻村です。

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月

2007-04-29

白菜追記

 浜垣先生のコメント、大変有難う御座います。私の説明不足、申し訳ありません。一部補足をさせてもらいます。

 白菜の品種は、(イ)芝罘郡 (ロ)加賀郡 (ハ)包頭連郡 (ニ)愛知郡 その他

各郡からの育成系統は省略します。(イ)芝罘郡系の「松島系品種」の説明を追記しますと、「郡としての最も明確な特徴は、1)葉肉がうすく葉数型であること、2)全般的に葉面のちぢみが強く、毛茸が多いこと、3)軟白に比較的低温を必用とすること、などである。」

 また、「結球形状では、抱合砲弾型から包被円頭型など、きわめて多数な変異を示すが、そのうち抱合砲弾型は他の郡にはほとんどみられないので、これは芝罘郡の一特徴とすることができる。」(前参考文献の品種特性と作方適応性より) 賢治の作品にあります両型が「松島系品種」に有ったのです。

 問題の(ハ)の包頭連郡は、野崎三号、雲仙包頭連、青邦包頭連、松島白色包頭連等ですが、この品種は東北では栽培が難しいと考えられています。007

左の写真で中程の山東型は、松島系品種を現していますが、これについては前回ご説明したので省略させていただきます。

次に「琿河か遼河の岸で」の解釈ですが、これはキーデンノとの関連からにても「北上川の岸」での比喩とわたくしは詠みますが、白菜畑との関連で詠まれるのはどうでしょう。「語彙辞典」にも力丸さんの引用がありますが、しゃれまでとは申しませんが一つ一つの作品を見極めてほしいと申しあげましたならば、苦言過ぎますでしょうか。

 わたくしは「下ノ畑」を賢治の作品にそって詠みたい。白菜や当時の育種学の研究者ではありませんし、ましてや賢治研究者でもありません。賢治の羅須地人協会当時からはあまりにも変わりすぎている現代のなかで、ほんの小さな地区のみしか知りませんが、それもボヤケてしまっています。ですからここに書きましたことが正しいなどではないのです。誰かがそう云ったとか、こう思う、詩の世界ですからどうよまれてもいいのですが、在ったか無かったかとか、検証云々については、詩的言語ではないはずです。ですから文言については責任を感じていますが、わたくしにはそれを解く力はありません。「下ノ畑」を知りたいだけです。解らない事だらけです。ご質問の主旨に沿わないめんはご容赦下さい。

 

2007-04-27

白菜の生産

 「宮澤賢治の詩の世界」から、此方のブログに身に余る光栄のトラックバックがあつた。「賢治の愛したバラ」の資料や「石鳥谷肥料相談所」の明察等、ブログ上でのご活躍は高く評価され、賢治研究者に注目されておられるところだ。

 さて、4月24日の「宮澤賢治の詩の世界」に「白菜の種子」と題して、「賢治が白菜の種子を『横浜植木』から買ったかどうかはわかりませんが、地元花巻で白菜の種子は売られていなかったでしょうから、賢治はどこかに注文して買うしかなかったわけです。」とあります。

 「地元花巻で白菜の種子は売られていなかったでしょうから」とありますが、何か資料がおありでしたならば、是非ご教示お願いしたいのです。006_2

写真は「日本地理体系 5 奥羽篇(改造社版)昭和五年十一月三日発行からのものです。仙台白菜は昭和三年度に各駅の発送数量は、一万五千三百二十二トンと記載されています。「春と修羅 第三集」のころは、右の写真の記事から見ても、花巻でも一般家庭をも含めて結構な数量が生産されていたものと考えられますが、「白菜の種子」が何処の何と言うお店で売られていたかは、そこまではわたくしも調べていません。何れにしろ、前にも記しましたが「松島系」の白菜は逸早く取り入れられて栽培されていた事はまちがいないのであると考えられるのです。

 岩手畜産牧場厨川分厩跡に園芸試験所東北支場が明治四十年に分設、後に園芸試験所盛岡支場となっているので、詳しい事をお知りになりたい方は清野所長さんにでも、お邪魔にならない程度にお聞きされてはと思います。岩手の農業関係の研究者は、早い時代から育種に力を入れて居られたようですよ。

(写真画像は画像上で右クリックをされて「リンクを開く」でご覧下さい)

2007-04-12

「圃道」管見

 作品「白菜畑」の次の作品は、「741 圃道」ですが、この「圃道」の十五も前の作品に『718 井戸』があります。賢治研究会 読書会でのリポート(94号)を拝見しますと、作品番号「738 井戸」の下書稿の「圃道」は取り上げられなかったのでしょうか。「校本全集」の校異によりますと、「井戸」は、「蛇踊」から改稿され、下書稿の過程で「圃道」に、それから『題 [ 圃道→井戸 ] 』と、校異での推敲過程がみられます。そのためでしょうか「作品番号718」の作品は、「蛇踊」と「井戸」の同じ番号で二つの作品があります。「井戸」は最終的には「 圃道→井戸」となっていますが、作者の改稿過程を考えますと、「白菜畑」の作品製作過程や、推敲課程、それに日付け等をも含めて、前者の作品と何らかの関連が考えられないものなのでしょうか。作品 「井戸」には、「玉菜」が見られます。「下ノ畑」・自耕地に最初に出てくるのは、ポンデローザでもヒヤシンスでもなく、「玉菜畑へ飛び込めば」の「たまな」ですから気になります。

 「白菜畑」の前後の作品については、「白菜畑」との関連があることは解かりますが、この作品に日付けのないことや、作品『743 [ 盗まれた白菜の根へ ] 』との関連は、最終的にはいつごろに手入れ改稿されて、如何様にして『春と修羅 第三集』のようになったのかは、結論から先に言うとわたくしには良く解りません。

 「十字屋版 宮澤賢治全集 第二巻」には、下記のように「白菜畑」があります。「校本全集」では『743 [ 盗まれた白菜の根へ ] 1926,10,13、』として掲載されている作品です。この「白菜畑」は、十字屋版でも「(作品743番)」として「圃道」の次の作品として掲載されています。

     白菜畑   (作品第743番) (15,10,13)

 盗まれた白菜の根へ

 一つ一つ萱穂を挿して

 それが無抵抗主義なのか

 

 水いろをして

 エンタシスある柱の列の

 その残された推古時代の礎に

 一つ一つ萱穂が立てば

 盗人がこゝを通るたび

 初冬の風になびき日にひかつて

 たしかにそれを嘲弄する

 そうしてそれが無抵抗思想

 東洋主義の勝利なのか

 同じ十字屋版に、上記の次に掲載されている作品は、「病院」「(作品第744番)」で、その後に「作品第745番」が載っています。この作品が「校本全集」では、稿異に下書稿(一)として『745 ◎  1926,11,15』掲載されています。「十字屋版第二巻」からとして転載されているのです。これが下書稿(二)で手入れ推敲されて、『741 白菜畑』本文として我々の目に触れているものです。

 さて、今迄みて来ましたが、『白菜畑 Ⅱ』に記しましたように、賢治研究会の読書会リポートの読みが妥当で、本来は「制作年月日」や「作品番号」が編集にあたっては、確実なところ・正確には規定しがたい、ということでしょう。大事なことは以下に記されている事であったのです。「校本全集」の「凡例 12」に示されていますように「便宜上、自筆日付け順に作品を配列したが、これは必ずしも制作順(もしくは制作成立順)の配列ではない。」と明記されている事です。

 それから賢治の作品内容からは、如何様に詠むかが読み手に託されているわけですが、ヒクションと事実の読みが重要視されざるを得ないという事ではないでしょうか。賢治の作品を読んで、作品からの所謂村人との対立や、揶揄嘲笑のたぐいの時期については、慎重に取り扱われる必要性が考えられるのではないでしょうか。

 「741 煙」の作品の校異に、下書稿余白に、以下のような書き込みがあるとの事です。

  八幡社の杉

  吉凶悔吝

と。作者はどのような心境での書き込みだったのでしょうか。そして何処の場所を意味し、何を示そうとしたのでしょうか。何時かの機会に触れたい題です。

2007-04-10

「白菜畑」前後

 賢治の詩「春と修羅 第三集」で、制作日付けが無いのは、「白菜畑」と「1020 野の師父」の二題である。このことについては後日に考えるとして、「白菜畑」の作品の前の「煙」なる作品ををよんでみたい。

 賢治の「煙」と題されているこの作品についての最も知られている解説の論考は、「薄明穹を行く」に出ている小沢俊郎氏の「煉瓦工場」であろうか。これは「四次元」に掲載された論考であった。ここでは小沢氏と小生の読みの違いのことを記したい。

 小沢氏は、「煉瓦工場」で記されている「731 はるかな作業」の作品と、「煙」の作品を同じ系列にに扱われているが、この作品は全然違う作品なのである。「煙」と題されている煉瓦工場の場所は小舟渡であって、「下ノ畑」から良く煙突が見えていたところである。煙突のはるか左後方には岩手山が見え、十月の末頃には山頂にいただいた雪が白く光ってよく眺められた。煉瓦工場は小沢氏も記されているように「イギリス海岸」の近くであった。

 「はるかな作業」で扱われているのは瓦工場で、二子の先、むらさき野にあったところであろう。当時は瓦を焼くために必要な雑木の里山が多くあり、飯豊にも瓦工場があった。「晩にはそこから忠一が / つかれて憤って帰ってくる」のである。小沢氏の解説にある「空虚な川」は「イギリス海岸」の所ではなく、「下ノ畑」の近くで渡し場の少し上流でしょう。小沢氏は『「はるかな作業」は、9・10の作だったが、「煙」は10・9の作である。一ヵ月後、同じ場所で似た題材を描いているのだから、前者の継承と考えていい』と断言されているのであるが、その後あの世で作者とお会いになって苦笑されているのではなかろうか。

 「煉瓦工場」と題して「煉瓦」と「瓦」を、「工場」で結びつけて、二つの作品の内容全体の解釈を、自己の恣意的解釈にみちびきだそうとする、詠みとしては、人それぞれで、その人の自由であるが・・・・・。 (少し内容を変更しました・11日追記)

「白菜畑」Ⅱ

 沼倉吉兵衛が芝罘の種子を輸入して採種を研究し、交雑防止のために松島湾内の一島を借り受けて、種子の大量生産に成功したのが大正九年で、その名が「松島ハクサイ」です。また同県の渡辺採種場でも改良に着手し、大正十四年には「松島純一号」そして「松島純三号」などの育成発表がなされています。賢治は、真新しく開発されたばかりの国産採種種子を入手して、これも心血を注いで出来立ての「下ノ畑」に作付けをしたのです。と行きたいのですが、ここで「白菜畑」には作品番号はあるのですが、外の作品と違い日付が記されていません。それに「ここへ野菜をつくっては / 盗られるだろう・・」とありますが、何時の事かは分からないのです。そこで読書会でのお力を拝借です。「作品番号七四一は、この作品の前の「煙」と同じ番号であり、「煙」には一九二六年一〇月九日という日付けが付されている。そしてこの作品の次の「圃道」の作品番号が七四二、日付けが一九二六年一○月一〇日となっているため、この作品の日付けは「煙」と同じ一九二六年一○月九日と推定する」とのことです。また早池峰の雪景色や、朝霜の情景からこの日付が「自然だと考えられたのである」ということです。

 白菜の収穫期が十月の九日前後でしたなら、作付け日は、東北の北部でしたならば八月の上旬なそうです。この年の八月ころの賢治の作品からは、白菜の作付けについては読み取れません。

 次に栽培についてですが、土地は砂地ですから良いとのことです。賢治の播種はどのようにされたかは分かりませんが、現在の平均的な栽培の例ですと、うね幅75cm 株間45cmこれで10㌃当たり栽植株数2962とのことです。『参考資料(野菜園芸大辞典 養賢堂 昭和60.1.30.第三版)その他』 育苗方法は、春巻きではありませんので発芽からみてもありえないようです。ですから種子が安価でなければ容易でないと考えられます。

 やっとあるめんの「千の芝罘白菜」「砲弾連の七百」がみえてきました。賢治研究会の諸先生方は、「千とか七百とあるのは、実際にそれだけの数の白菜があるということではなく、多くある様の表現であろう」と言われています。それに違いないでしょうが、開墾した「下ノ畑」の広さと、作品の「日付け」に付いての幾許か考えさせられる作品であるのです。

2007-04-09

「白菜畑」

 『春と修羅 第三集 「七四一 白菜畑」』は、研究者に数多くの論文がありますが、ここでは「賢治研究 94」{読書会リポート}を参照しながら、読み進めてみたいと思います。

 白菜から少し外れるのですが、三行目と四行目に「十いくつかのよるとひる / 病んでもだえていた間 」 とありますが、この表現について「すでにこの頃からこうした肉体への不安が、残された人生をどう生きるかという切実な問題を作者に強く意識させていたのかも知れない、ふとそんなことを思ったりした」との解説?があります。「病んでもだえていた間」とは、何も賢治晩年の「病」のことではなくて、<この当時ならば>(4・30日追記)「畑」を作るための「開墾」と言う重労働であった為の筋肉痛や強度の疲労を詠んだものではないかと思います。

 「 千の芝罘白菜は / はじけるまでの砲弾になり / 砲頭連の七百は / 立派なパンの形になった 」 (七行めから十行目)。 「芝罘白菜」と「包頭連」白菜については「語彙辞典」にも説明があります。これに少しつけ加えます。白菜の結球の形状呼び名にはいくつかの命名があったようです。「芝罘群」には、抱合砲弾型と包皮円頭型等があり、他の群にはみられない「芝罘群」の一特徴をなしていたといわれていたようです。次に「包頭連」白菜ですが、これは「包頭連群」白菜のなかの松島白色包頭連白菜と思われます。「包頭連」と賢治名記の「砲頭連」は、「パンの形」状が決め手ではないかと思います。「砲弾」の形と少し平べったい「パンの形」では、明らかに違いがあります。(松島白色包頭連白菜のこの品種は一時期{出始めの昭和初年頃}広く栽培されていたそうですが、純粋な形態では土着する事が出来ず、現在では改良品種ができているそうです)

 ここでだいじな事は、作者賢治は「芝罘白菜」と「包頭連」白菜とを知っていた事です。そして「千」とか「七百」と言うふうに明記している事です。次回は「千」と「七百」の作付けについて、概観してみてみたいと思います。

 

2007-04-08

賢治と白菜

 昨年の暮れ頃に「下ノ畑」について書いたのですが、開墾地・汗と血の結晶の「畑」に、何を最初に蒔かれたのかについて、良く触れませんでした。賢治の自耕地で採れたものは、『734 [ 青いけむりで唐黍を焼き ] 1926,8,27, 』の唐黍トマトが最初にみえています。つぎに「白菜」が『春と修羅 第三集』の作品に出てくるのですが、この作品 『741 白菜畑』についてここで触れたいと思います。

 「新 宮澤賢治 語彙辞典」に白菜について記されていますが、この野菜について「中国原産で日本には1882(明治十五)年に入り、大正時代に全国的に栽培されるようになった。」とあります。「語彙辞典」に記されていることは間違いではありませんが、賢治が「下ノ畑」に白菜を作るのに、中国からの輸入種子を使用したのかどうかに付いては何も記されていません。ある資料によりますと「明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていた」とあります。賢治が「下ノ畑」で使用した(蒔いた)のは輸入種子であったのか、それともどんな種子を使用したのかを考えて見たいと思います。

 最初に奇異に感じられるかもしれませんが、白菜は当時の牧野植物図鑑には載っていません。きゃべつは「たまな 十字花科」として、賢治蔵書のなかにもあった牧野植物図鑑にあります。(最近の北隆館の牧野植物図鑑にはアブラナ科となっています) おなじアブラナ科の白菜については栽培法のおいたちが、採種場の栽培史として記されています。此処では日本での栽培史について、賢治との関連とおもわれる事だけを記します。

 宮城県において、明治二十八年に日清戦争から持ち帰った種子芝罘群を、仙台伊達家養種園の沼倉吉兵衛によって1920年に試作され、その後引きつづき渡辺穎二によってすすめられ、多くの「松島系品種」が育成されたとのことです。それまでの輸入種子は「種子一升が米一石に相当する高価なもの」であり、大正初期ころから各地で育種や採種の問題解決が急務とされていたといわれています。そして沼倉氏により「大正九年に『松島ハクサイ』と命名した。」品種が出来たのだそうです。こうして白菜の種子採種が、日本でも出来るようになったということです。(野菜園芸大百科17 農村漁村文化協会 第二版2004,3)(小学館や平凡社の百科事典にも白菜は出ていますが、採種年が曖昧な所が有ります)  

 宮城県や岩手県等が、いちはやく松島種子を取り入れた資料を探しましたが見つかりませんでした。賢治も白菜の種子には管見では何処でも触れていないようです。でもどうでしょう。このことは皆さんでお考えになられては如何でしょうか。 次に作品「白菜畑」を読んで考えて見たいと思います。

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »