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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2007年10月

2007-10-21

ドイツトウヒの森

 我が家の近所で板橋区民祭りが、昨日と今日行なわれた。「地球環境と交流のひろば」の「信越高原」会場に、「ドイツトウヒ」の大きなマツカサが、苗木や盆栽を買われた方に「おまけ」として配られていた。005_3002_3  妙高高原から笹ヶ峰牧場に行く途中に、地図<写真>に001記載の「ドイツトウヒの森」があるという。 ここの森からの贈りものということだ。

 賢治語彙辞典によると、賢治の時代の説明だったのであろうか「日本でも東北地方と北海道にいくらか造林されており、[途中略] 岩手大学(旧盛岡高等農林)にもみごとな大木がある。」と。

 『「ドイツトウヒの森」には、「森の学び舎」から徒歩で行かれる以外ない。熊にご用心。ものすごく広いですよ』 と会場で親切な説明を聞いてきた。  ご存知の方もおられるでしょうがわたくしは初めて知った。                                                                                                                                                               

2007-10-12

広瀬正明氏の論考を読んで

 宮澤賢治学会イーハトーブセンターから今年もAnnual が届いた。

昨年に続いて広瀬正明氏の興味ある論考が載っている。

 此処に書くのは、専門知識の無い素人のわたくしの読みだから、間違いだらけばかりだと思うのであるが、非才を省みずに感想を述べ恥をかく。

 最初に、昨年の論考「紫雲英と石灰による有機農法」-ある化学計算ノートにみる賢治の構想ーに少し触れたい。「三集」の「饗宴」に、(紫雲英<ハナコ>)が出ているからだ。わたくしのレンゲソウの肥料の知識は、吉村清尚著 最新 肥料学講義 弘道館発行である。初版は大正十年七月十日で、訂正増補七版 昭和二年六月十五日発行のものをみている。第七章 植物質肥料のところからが、主なるものである。このなかの「紫雲英」と関連があると思われるところは、緑肥の効果等や、組成、それに成分表などが見られたりする所(251頁)、また「小野寺氏の研究によれば、紫雲英を水田に多量に施し稲作に有害作用を呈する場合の主なる原因は、その分解の際にメタン・炭酸瓦斯等多量に発生し、水稲根に有害作用を及ぼすと同時に土壌中に酸素の欠乏を来たさしめし水稲の栄養を妨ぐるに基づくものの如し。」(244頁)等である。 此処に出てくる「小野寺」は2月28日に記した「肥料学汎論」の著者である。広瀬氏も他の資料で注目して論じている。またこんな記事も視られる 「一反歩の紫雲英が開花迄に空気中より摂取同化する窒素の量は、二貫二百六十匁にして、人糞尿の十八荷、若くは魚肥の二十八貫に相当すべしといふ。」(255頁)。 その他この本には販売肥料の価格表や肥料試験(第十六章)があり、附録には肥料分析表が出ている。この本は当時の教科書として使用されていたのかも知れないと思える。明治時代の「肥料学」は、博文館「帝國百科全書」に視られるように肥料各論第一章人糞と云うような感じであった。昭和の初めになると、小野寺の「肥料学汎論」に見られるような新しい感覚の内容と形式の書になる感じである。 次に

 今年の論考は『「青森挽歌」における賢治の生命観」-化学の視点でたどる物質と精神の位置づけ』である。此処でも広瀬氏の参考資料と小生の視ている本の違いを述べておきたい。氏は『「意識ある蛋白質」の科学」を述べ、、「化学本論」やその他の著書を挙げている。

 「物質と精神」については他に記すとして、「賢治の生命観」について、主にヘッケルを採り上げられている。結論から言うと私は広瀬氏のこの論と関連ある著書は、大日本文明協会の「生命の不可思議」に付いては疑問を持っている。この本ではなく、「生命の不可思議」の同じ訳者の後藤格次が、同じ大日本文明協会から出版された「オストウァルト 価値の哲学」であると視ている。オストワルトに付いては「化学本論」の序文にも二度ほど名前が出ているだけではなく、本文の第八編 第二十八章に詳細に記されているのが視られる。また、堀尾青史著 「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)98頁に、仙台で「無機化学原理」を買った事例も出ているからである。「価値の哲学」の第二篇 応用の 第十二章 心理学上の方向現象竝に意志 118記憶の物理化学的起原で、蛋白質の化学的性質等を記している(329頁)。直接今回の論とは関連はないが、トロピズム作用説があり、毛細ガラス管の林檎酸運動が説明されたりしている処等が面白い(312頁)。ヘッケルの一元論でなく、オストワルドの実證論的認識の立場が、賢治の生命観に適しているのでわないかと思える。有機酸の研究ではアレーニュウスの説を実験的に強固にしたり、フアント・ホッフ等と共に新学説を称えている。広瀬氏の論の補強の意味でオストワルドを採り上げてもらいたいと感じた次第である。

2007-10-09

『「牧歌」の背後』

 栗原敦氏の『「牧歌」の背後』を読んだ。

もうだいぶまえのことだが、嶋二郎さんと飲んだときである。

「栗原さんは我々よりも、賢治作品に出てくる地名や場所に関してはよくご存知ですね。とてもあそこまで全般的には分からんよ。」と云うことで一致した。『「牧歌」の背後』もそれに違わぬ内容である。

 氏の『「牧歌」の背後』は、「牧歌」を読んで、当時の時代状況を知るうえでは参考になるが、「牧歌」が「名子制度」を「背後」としているとするのはどうだろうか。

 「太田」に付いては解るが、「辻堂」はどこだったか。そして田植えの場所は何処であつたのか。次に、忠一さん(甲助)や喜助さん(キスケさん)の参加している田植えであるならば、栗原氏の「牧歌」解釈の「背後」としての「名子制度」は、氏は疑問を持ちながらではあったが、はたして現実的であったかどうかである。

 氏が云う「名子制度」の残存であるなら、「饗宴」での状況はどう読んだならよいのだろう。仮定として宮澤家であったならば、小作人はあのような態度はありえないであろう。菊地正「伊藤与蔵聞き書き」に、飲み代の寄付が書かれているが、そこに書かれている地主は、島和衛門と宮澤家だけである。他に地主は出てこない。この両家は田畑は貸していたが、「太田」からまでの加勢が必要とする程の自耕地は、この近所には無かったはずだ。宮澤家では「名子制度」的耕作はなかったと思う。島和衛門の子供で次男の嫁は、わたしの祖母の姪であった。兵舎の入り口右側の屋敷近辺の畑を、祖母が良く手伝い仕事として耕していたが、其の程度の自耕地はあったが自耕田はなかった。「太田」地区にも土地を所有する地主で、忠一さんまでもが参加させられる地主であるなら、誰であったのか。

 「牧歌」で詠われている場所は、外台であることはまちがいない。外台の崖下側は地下水の染み出る「鉄ゲルの湧く」所でもあったし、「みんなで崖を下りて行き」とあるからだ。そして参加者が特定できる。とすると場所は賢治の住んでいた崖下から、せいぜい南城小学校下近辺迄であろう。その崖沿いの田であることが特定できる。「結い」に付いてなら考えられなくもないが、わたくしは次のように考える。

 また私事で恐縮だが次のような事実を述べたい。母は近所の嫁三・四人で似内に田植えや稲刈り時に、「手間取」に二・三日行った。「ほまつしごと」と言って、この時に得た収入は、農家の若い嫁の、唯いち自由に使えるお金でも有ったのである。其の地区によって、このような事が長く慣例化されていた。桜の部落でも、「ほまつしごと」での集団(大げさに言うと)が幾組みもあった。森口多里著「町の民俗」に、「南部の手間取」に、「出稼ぎ男」を面白おかしく書かれているが、ここでは、若い嫁にあえて農繁期に、「ほまつしごと」を与え、最っとも重労働で辛い時期を乗り越えていくというある制度の、知恵であったのかも知れない。毎年おなじ地域で仕事をするという事は、それなりの配慮と気遣いが、長続きの必要条件とも言えるのである。「牧歌」は、ある農家の田植えの情景で、地元の人々と、「太田」からの「ほまつしごと」の「手早い娘」達とを詠われた、このようには読めないものだろうか。「牧歌」の「背後」(背景)は、「名子制度」では有り得ない。また「昔からの庇護に対する報恩としての労働提供」でも無いのである。この地区(桜や外台)は、農地改革以前でも、「オラホの村は宮善の村です」とはい得ない。

2007-10-06

下台三例

 

 昨年十一月二日に、「外台」に触れた。説明不充分であったのでまた記す。

 賢治の作品に、「下台」と書かれている例が、三例ある。

 「イーハトーボ農学校の春」 

 「さあ、ではみんなでこいつを下台<しただい>の麦<むぎ>ばたけまで持<も>って行<い>かう、」 この作品には、推敲過程で「第一形態成立時またはその直後」手入れのとき「総ルビが付される。」とある。作者賢治のルビであると言う。

  

 「牧歌」 {「春と修羅 詩稿補遺」}  

 「鉄ゲルの湧く下台の田をやり出した」 「旧 校本全集には、[ とだい ] のルビが付されている(38行目)が、これは作者自身の付けたルビではなく、校訂者の「難読」について適宜ルビを補ったものという。「新修 宮澤賢治全集」には、ルビが付されていない。(90頁) 蛇足であったことに気が付いたのであろうか。

 

 「来訪」 {「春と修羅 詩稿補遺」} 

 「下台ぢゅうの羽虫がみんな寄ってくる」 「校本全集には、[ とだい ] のルビが有るが、これは作者自身の付けたルビではなく、「新修 宮澤賢治全集」でも、ルビが付されていない。(143頁)  

 「イーハトーブ農学校の春」の場所は、旧農学校での出来事であるので、「羅須地人協会」下の、「外台」ではない。 

 「新修 宮澤賢治全集 語註」解説者の小澤氏は、地図にまで「下台」と記してしまった。「新 宮澤賢治語彙辞典」の解説者も間違うのもやむを得ない事であった。

2007-10-01

増水再説

   前回 敝舎について記した。今回もこれについてまた、少し補足をしたい。

 「『新修 宮澤賢治全集』 第四巻 語注(小沢俊郎氏作成)」に、敝舎の解説項目がある。  

  敝舎<へいしゃ> あばら屋。ここは、羅須地人協会の北三00米(稗貫郡根子村桜、大正十二年に花巻川口町に合併)にあった工兵第八大隊 (常駐地は盛岡) の演習廠舎(シヨウシヤ)の誤りか。 とある。 

 廠舎とは、かりや・露舎と辞書にあるが、工兵隊の兵舎の、鉄舟を格納していた所はあばら屋でも露舎でもなかった。小岩井農場の重要建築物に似た、外壁は板張りで、中は土間であった。ここの一部は、戦中に工作機械が設置され、青少年機械工業養成所として使用された、言うなれば立派な建物であった。

 語註 「古川あとの田」にも触れておこう。

  羅須地人協会の南の下台<トダイ>(賢治の自耕畑もここにあった)などは、北上川の旧河床の低地。

 下台は以前にも触れたが此処でも再説する。「春と修羅 詩稿補遺」 牧歌に 「下台」が記されている。語註解説者は、「下台」は「外台」の作者賢治の書き誤りを、トダイとルビを振り、正しい注釈を省略した。地図上では「外台」が正しいのに。 { 古川については、9月11日の [ 滝清水神社 ] でふれた。}

 「賢治の自耕畑」(下ノ畑)は、「外台」に有った事は衆人自明のことであるが、「古川あとの田」からは大分離れた、「田」を耕作するには適さない砂地であった所である。「北上川の旧川床の低地。」ではなかった。

 

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