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賢治参考図書

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2007-10-09

『「牧歌」の背後』

 栗原敦氏の『「牧歌」の背後』を読んだ。

もうだいぶまえのことだが、嶋二郎さんと飲んだときである。

「栗原さんは我々よりも、賢治作品に出てくる地名や場所に関してはよくご存知ですね。とてもあそこまで全般的には分からんよ。」と云うことで一致した。『「牧歌」の背後』もそれに違わぬ内容である。

 氏の『「牧歌」の背後』は、「牧歌」を読んで、当時の時代状況を知るうえでは参考になるが、「牧歌」が「名子制度」を「背後」としているとするのはどうだろうか。

 「太田」に付いては解るが、「辻堂」はどこだったか。そして田植えの場所は何処であつたのか。次に、忠一さん(甲助)や喜助さん(キスケさん)の参加している田植えであるならば、栗原氏の「牧歌」解釈の「背後」としての「名子制度」は、氏は疑問を持ちながらではあったが、はたして現実的であったかどうかである。

 氏が云う「名子制度」の残存であるなら、「饗宴」での状況はどう読んだならよいのだろう。仮定として宮澤家であったならば、小作人はあのような態度はありえないであろう。菊地正「伊藤与蔵聞き書き」に、飲み代の寄付が書かれているが、そこに書かれている地主は、島和衛門と宮澤家だけである。他に地主は出てこない。この両家は田畑は貸していたが、「太田」からまでの加勢が必要とする程の自耕地は、この近所には無かったはずだ。宮澤家では「名子制度」的耕作はなかったと思う。島和衛門の子供で次男の嫁は、わたしの祖母の姪であった。兵舎の入り口右側の屋敷近辺の畑を、祖母が良く手伝い仕事として耕していたが、其の程度の自耕地はあったが自耕田はなかった。「太田」地区にも土地を所有する地主で、忠一さんまでもが参加させられる地主であるなら、誰であったのか。

 「牧歌」で詠われている場所は、外台であることはまちがいない。外台の崖下側は地下水の染み出る「鉄ゲルの湧く」所でもあったし、「みんなで崖を下りて行き」とあるからだ。そして参加者が特定できる。とすると場所は賢治の住んでいた崖下から、せいぜい南城小学校下近辺迄であろう。その崖沿いの田であることが特定できる。「結い」に付いてなら考えられなくもないが、わたくしは次のように考える。

 また私事で恐縮だが次のような事実を述べたい。母は近所の嫁三・四人で似内に田植えや稲刈り時に、「手間取」に二・三日行った。「ほまつしごと」と言って、この時に得た収入は、農家の若い嫁の、唯いち自由に使えるお金でも有ったのである。其の地区によって、このような事が長く慣例化されていた。桜の部落でも、「ほまつしごと」での集団(大げさに言うと)が幾組みもあった。森口多里著「町の民俗」に、「南部の手間取」に、「出稼ぎ男」を面白おかしく書かれているが、ここでは、若い嫁にあえて農繁期に、「ほまつしごと」を与え、最っとも重労働で辛い時期を乗り越えていくというある制度の、知恵であったのかも知れない。毎年おなじ地域で仕事をするという事は、それなりの配慮と気遣いが、長続きの必要条件とも言えるのである。「牧歌」は、ある農家の田植えの情景で、地元の人々と、「太田」からの「ほまつしごと」の「手早い娘」達とを詠われた、このようには読めないものだろうか。「牧歌」の「背後」(背景)は、「名子制度」では有り得ない。また「昔からの庇護に対する報恩としての労働提供」でも無いのである。この地区(桜や外台)は、農地改革以前でも、「オラホの村は宮善の村です」とはい得ない。

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