賢治の「下ノ畑」は?
春と修羅第三集を語るときに、「下ノ畑」の解明が欠かせない。
[ 709 ] 春 1928,5,2 からはじまり、詩ノート[ 1092 ] 藤根禁酒会へ贈る 1927,9,16までを詠むとき、羅須地人協会活動での一つの基底であったからである。ここでは賢治が「農民となる」宣言をして開墾をした「下ノ畑」にふれたい。
「下ノ畑」について菊地忠二氏は、四次元1963年4~5月号のなかに
25アールばかり耕したもの
と、羅須地人協会の隣に住んでいる、当時の協会員であった伊藤忠一から聞いたとして書かれている。
次は 佐藤成編著「宮澤賢治 地人への道」に、
耕作した畑は二反五畝(25a)とも一反五畝(15a)ともいわれる。(270頁)と記されている。
これらと大きくかけはなれた説に菊地正氏 伊藤与蔵さんよりの「賢治聞書」がある。
先生が働いていた畑というのは、一町歩近くもあったと思います。畑は川流れ(川の増水度ごとよく流される場所)のところでした・・・(2頁)と書かれている。
賢治研究の虎の巻として最も権威のあるとされている「新 宮澤賢治語彙辞典」には、残念ながら「下ノ畑」や「自耕地」については何も書かれていない。
以前このブログに、伊藤与蔵からの「賢治聞書」一町歩耕作説に疑問を呈しておいたが、今回再び考えてみても、「下ノ畑」とその近所にある小笠原果樹農園の広さと比較してみても、賢治の開墾した「下ノ畑」の広さは、「賢治聞書」の一町歩説は在り得ない。
菊地や佐藤が述べられているのが妥当であろう。
現在 自耕地の場所の正確なことは、耕地整理により不明となった。
[ 追記 菊地忠二著「私の賢治散歩 下巻」四十二頁にも有りました。]
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壺中人さん。お久しぶりです。
「下ノ畑」って、広かったのですね。
そこで主に何を栽培していたのでしょうか?
珍しい花の種や球根を取り寄せて栽培していたようですが、それだけではなかったのでしょう。
また「新宮沢賢治語彙事典」って、最も権威のあるもの?? なのでしょうか。
アイロニーでしょうか?
まあ、便利ではありますが。
壺中人さんのいつもの
投稿: nenemu8921 | 2008-03-10 09:50
nenemuさんへ
ご返事遅れまして済みませんでした。
ご覧下さいまして有難う御座います。
「下ノ畑」 仮に一反五畝前後にしても結構な広さですね。
キャベツや白菜・ヒヤシンス、どんな物が畑で育てられていたのでしょうか、皆さんに教えて下さいますようお願いします。
「東京農産商会」から取り寄せたのは、花壇用の商品だけだったのでしょうか。
是非イーハトーブ・ガーデナーさんにお教え戴きたいです。
またお立ち寄り下さい
投稿: ヤジュル | 2008-03-13 10:16