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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

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2008年6月

2008-06-25

賢治研究草創期の人々

  佐藤勝治氏は宮澤賢治の生家から三四件隣の「藤田屋写真館」に、大正二年(1913年)にお生まれになられた方である。

  『イーハトーヴォ』(昭和14年11月~昭和16年1月 創刊号~13号)の第三号(昭和15年1月21日発行)に次のような記事が視られる。

  口 同二十三日夜七時より花巻豊沢町佐藤勝治氏宅にて賢治座談小会を催す。座談の後左の順序で朗読、レコード等あり。

  一、「序文」佐藤勝治。二、「岩手公園」高橋精一。三、「小岩井農場」(パート五)多田忠正。四、「岩手軽便鉄道」高橋喜一。五、「春と修羅」栃ノ澤龍二。六、「種山ケ原」伊藤忠一。七、「早春独白」高橋正亮。八、「林学生」栃ノ澤龍二。九、「早春独白」同。十、「ローエングリン」レコード等にて栃ノ澤氏の朗読は特に感銘を与えた。

 

 戦前のこの頃から佐藤氏は「花巻賢治の会」に参加されて活躍されているのが窺える。「栃ノ澤龍二」は何方もご存知でしょうが賢治実弟静六氏のペンネームである。

 この『イーハトーヴ』創刊号に、「宮澤さんからうける香ひ」と題し 三浦参玄洞の文が掲載されている。以下少し長いが引用する。

   これは過日宮沢さんの御父さんに差上げた手紙の中でも申上げたことであるが、今回、草野心平氏の御骨折りで出版された「宮澤賢治研究」を読み行くうち、わたしは佐藤勝治氏の『くわご』に至って涙とめどもなく落ちて傍人(私は電車以外あまり多く読書の時間を持たぬ)に隠すのに困ったくらゐであつた。同書中各名士たちの宮澤賢治観は漏らさず拝読し、それぞれ共鳴もし啓発もされたことであつたが、この「くわご」ほど私の心を撲つたものはない。撲つたといふよりも寧ろそれ以上の何物かであつた。わたしはそれを形容すべき言葉を今持たない。

 正直なところ私は宮澤さんの詩は解することが能きない。僅かに藤原喜藤治氏の注解によつて難かしいテクニックを解き得ないので、いくぶん解ったような気もするが、まだまだ解らぬところが多い。童話は詩ほどにないがそれでもどこやらから未知の世界に引込まれてさんざあぐさまれるような感じをうけることがしばしばである。

 にも拘らず、わたしはこの詩や童話から離れる気にはどうしてもなれないのはどういふものかと、そこには確かに他人にはない別な世界から来たにほいが漂ふてゐるからであろう。すなはち第四次元の世界に直接して居られた宮澤さんの特異な人格が無意識にわたしを引張りよせて下さるのであらう。ともかくわたしはまだ多くの人々が知らない宮澤さんを、割合にはやく知り得たことを、読み書きして活きる果報の中のいちばん尊いものだと感謝してゐる。

     ◇

  ところで今度只事ならずわたしを撲った佐藤氏の『くわご』は、宮澤さんを知る上に於いて一つのエランともいふべきものであった。釈尊在世のみぎり周利般陀迦といふ愚味の御弟子があつた。彼は周囲から馬鹿にされ、多くの先輩のもて剩しものであつたが、世尊の善巧方便空しからずして遂に羅漢果を證したことがお経に出てゐる。『くわご』に紹介された彌作は宮澤さんにとつて箇の周利般陀迦的存在ででもあつたらう。病人で貧しい両親をもち、仕事から仕事に遂い立てられて言葉にいそしむ遑もなく、同級生からは馬鹿にされ、先生からは退屈しのぎのよき玩弄物視され、八方塞がりのみじめな兒供であつたが、そのみじめに克く耐え得たのは実に「わたしの隣に宮澤先生が居られる!」といふ心恃み一つに依てではなかつたか。すなはち皆が皆私に取合つてくれなくとも宮澤先生さへあれば大丈夫。取合つても下されば教えても下さる、導いても下さるといつた安心が彼をして克くその悲境に耐えしめたのではないか。 (以下略)

 この事について佐藤は「啄木と賢治」1976年新春号『三浦参玄洞さんと私』に次のように記している。

  三浦参玄洞さんは、大阪で出している仏教新聞”中外日報”の主筆を長い間つづけていて、四・五年前に亡くなられたそうである。最も早い頃の賢治研究者の一人であるが、私は、一度もお会いしたことも文通したこともない。それにだいいち、氏の書いたものは、盛岡の菊池暁輝さんの出していた”イーハトーヴォ”紙の創刊号(昭和十四年)で一度読んだだけである。それなのに、参玄洞さんは、ざんきに似た懐かしさと尊敬の念を以って、私の念頭を離れない。 (以下略) 

 佐藤の『くわご』の載った、草野心平編「宮澤賢治研究」(十字屋書店 昭和十四年九月六日発行)のなかの、『第四次元世界への憧憬・・・三浦参玄洞』は、佐藤は読まなかったか、それとも記憶から消えていたのか。それに「イーハトーヴォ」の第五号や、第七号の三浦の論考等も未見であった。また第八号(昭和15年六月21日発行)には、「大阪府阪急沿線豊中局南刀根山(三浦参玄洞方) 大阪賢治の会 」が加わっている事にも、後にも触れていない。

 佐藤は、参玄洞の水平社運動や真宗本願寺教団との闘争等々、また社会主義の坊さんとして知られていて、キリスト教社会主義者「モーリス」や、マルクスの精神的存在にも触れていている事を知ったなら、佐藤の「宮澤賢治批判」が内容的にさらに深められていたであろう。

 (「三浦参玄洞論説集」が最近出版されています。参玄洞に興味のある方はそちらをご覧下さい。三浦参玄洞については、わたくしは清沢満之や内村鑑三の思想継承者と思っています。これ等に付いては他のきかいにゆずりたい)

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