南城農業補習学校
宮沢賢治が教えた「国民高等学校」の後に、羅須地人協会近くでは「国民高等学校」と同じような動きが有った。昭和十年四月南城農業補習学校が南城小学校内に併設され、七月には青年学校普通科と改称され、ここでは農業実習を主にした教育が行なわた。「農は経験だ 農は経験だ 千万の学理も、体験の上に真に生かすものでなければ、死物にひとしい。」といった感じの教育であった。松田甚次郎は昭和十四・五年の頃からここへ見えていたようである。この「学校」は賢治が教えた「国民高等学校」より少し長く続いたが、その後農家の次三男は六原道場に吸収されていった。(六原道場については別に述べたい)
太平洋戦争が始まると桜に有った工兵隊の兵舎の一部である船の格納庫(北東板塀作り)に、旋盤やミーリング等の工作機械を設備して、高等小学校を卒業した少年を、第二種「特殊」工業学校(?)で実技教育を終えさせて、宮城県の多賀城海軍工廠等へ徴用兵として送り出された。終戦で帰った者に聞くと十四ミリ機関砲等の製造に携わったとのことであった。
日本における「農民国民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史」はふるいが、宮澤賢治は知られているが加藤完治はあまり話題にならなかった。大日本雄弁講談社から出版された「荒野の父 加藤完治」は昭和十六年九月に初版が出、十九年十一月には第四版が三千部出版された。フォルケ・ホイスコーレとの関連で賢治の「羅須地人協会」精神がどこまでかを考えさせられる。何時かは詳しく学びたい一例としてである。
追記 ある農業精神活動家を紹介いたします ご賛同ください
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