斎藤宗次郎と宮沢賢治の通った校舎
南城尋常高等小学校の旧校舎は、かっては斎藤宗次郎や宮沢賢治が学んだ校舎である。宗次郎は1889年に新設されたばかりの稗貫高等小校学に通うために小瀬川新太郎方(養母・こんの実家)へ寄寓され、そこから通い始めた(二年後には母の甥方に移る)。また賢治も同じ学校に1903年四月に入学した。
佐藤隆房著『宮沢賢治』には、「母校花城尋常高等小学校(大正末年撮影 故人の通つた校舎は焼失しその跡に再建したもの)」として、町役場の東南鐘つき堂のある校舎の写真を掲載しているが、宗次郎と賢治が学んだ校舎は南城に払い下げ移築されていたので、この『宮沢賢治』の記載は一部間違いである。賢治の二年生12月に移った新校舎は焼失したが、入学当時の校舎は残っている。{詳細は「賢治の小学校時代」参照}
南城に移築された校舎の二階の「奉置所」室は職員室として使用された。「第三学級」の教室は学校中で一番騒々しい学級が入れられた。教室と職員室の堺は板壁で少しの騒ぎでも職員室に筒抜けであった。騒々しいと他の先生が飛んで来た。必ず担任の先生から「罰」が下された。この「三学級」の教室に小生のクラスも入れられた。校舎の左奥「小使室」の外側には釣瓶井戸があり、作業の後などにはこの井戸を使用した。思い出の校舎である。
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