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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

羅須地人協会周辺

2009-09-13

南城農業補習学校

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 宮沢賢治が教えた「国民高等学校」の後に、羅須地人協会近くでは「国民高等学校」と同じような動きが有った。昭和十年四月南城農業補習学校が南城小学校内に併設され、七月には青年学校普通科と改称され、ここでは農業実習を主にした教育が行なわた。「農は経験だ 農は経験だ 千万の学理も、体験の上に真に生かすものでなければ、死物にひとしい。」といった感じの教育であった。松田甚次郎は昭和十四・五年の頃からここへ見えていたようである。この「学校」は賢治が教えた「国民高等学校」より少し長く続いたが、その後農家の次三男は六原道場に吸収されていった。(六原道場については別に述べたい)

 太平洋戦争が始まると桜に有った工兵隊の兵舎の一部である船の格納庫(北東板塀作り)に、旋盤やミーリング等の工作機械を設備して、高等小学校を卒業した少年を、第二種「特殊」工業学校(?)で実技教育を終えさせて、宮城県の多賀城海軍工廠等へ徴用兵として送り出された。終戦で帰った者に聞くと十四ミリ機関砲等の製造に携わったとのことであった。

 日本における「農民国民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史」はふるいが、宮澤賢治は知られているが加藤完治はあまり話題にならなかった。大日本雄弁講談社から出版された「荒野の父 加藤完治」は昭和十六年九月に初版が出、十九年十一月には第四版が三千部出版された。フォルケ・ホイスコーレとの関連で賢治の「羅須地人協会」精神がどこまでかを考えさせられる。何時かは詳しく学びたい一例としてである。

  追記 ある農業精神活動家を紹介いたします  ご賛同ください

      http://www.phoenix-c.or.jp/~m-ecofar/main.htm

2008-03-13

羅須地人協会の庭

  庭のトマト

 菊地武雄の「賢治さんを想い出す」に、次のような文がある。

   私が藤原君の案内で賢治さんのあの自炊の家(適当ではないが)を訪れた・・・<途中略> 私どもは雑草の庭からそこばくのトマト畑の存在を見出して、玄関外の小黒板に「トマトを食べました」と断はって帰ったことでしたが、もうその頃は余程健康を害していたので、ニ三日前豊沢町の生家の方に引き上げて床について居られた・・・・<以下略>

 ※ 宮澤賢治研究 草野心平編 十字屋書店版 321~322頁  

 藤原君とは藤原嘉藤治  昭和三年八月十日以後 の事であろう。 

 「雑草の庭から」とあるから、屋敷内に畑を作り、トマト等が作られていたもようである。

2008-03-10

羅須地人協会の周辺

羅須地人協会_new    昭和十一年十一月二十三日詩碑除幕式 Photo

 詩碑周辺について

 花巻の町から、羅須地人協会跡の賢治詩碑に行く途中には、豊澤橋を渡り旧国道の坂道を上がりきる(松原から向小路)と、同心屋敷が左側に立ち並んでいた。

 宮澤賢治がリヤカーを引いて歩いた道は、桜部落の家並みが終る所(現在の旧風童舎店舗の在る所)を左折し、両側が田圃であった道を通つたのであろう。そして旧国道から百メイトル程進むと田圃の中の十字路を、そこの小道を右折するのである。現在、同心屋敷を移設してある所や駐車場あるところも、またバス亭の近辺も、当時は水田であった。

 詩碑のある所への道は、小川を越えたところで左折をするが、この小川は「かっぱ沢」に流れていた。小川上流で、旧国道の少し川上に村の水車小屋があった。この小川は結構な水量のあったところである。

 ここから小川の土手は藪状になっていて、小雑木に混じってアカシヤの木も生えていた。 [ 詩727 ] に詠まれているところであると思われる。この小川に沿って東へ向かうのであるが、この道の右側、つまり南側は少し小高くなっていて松林がった。傾斜になった松林の上の南側も一面田圃で、松林の西側の小道を登りきったっ所から西を眺めると、旧「国道の並木の松」が見え、その先一面の田圃のさらなる先に、新国道に植えられた「松並木」がよく見えていたところだ。そして天気の良い日は、西の山脈がくっきりと見えた。

 賢治詩碑へ向かう小川の左側は水田で、その先には桜の家々があった。道の南側は、道に沿ってあまり広くない松林が終った所から、八景の四軒ほどの家が有った。詩碑に向かうこの道からは、「えぐね」の屋敷林で、家の台所の明かりが微かに洩れて見えるだけで、夜などは淋しい道であっと記憶する。

 現在の弥助橋の標識のある所は、昭和の初めころ、小川の川底はニ・三メートルもあった。そこから詩碑入り口の所までの道の両側は、大きな木で蔽われていた。 

  「<宮澤賢治の詩の世界>のこの場所の地図に示されている地点や、地人館の場所は、一部雑木林であったと記憶する。今の地人館北側あたりからは畑であった。畑の東崖上は、崖に面して杉が植えられていた。」

 詩碑入り口からの道幅は、今と変わらなかったと記憶する。路の南側(右側)は伊藤忠一さんの畑で、北側(左側)はカバノ木や栃の木や、杉の木が生えていて、その下は笹などで藪化していた。右側畑はニ十センチ程、路より高く、左側の藪のほうは、どれだけ低かっただろう。三・四十センチ程も低かったと思う。詩碑が建った後であるが、夏の日曜、朝早い時間にこの路に行くと、よく蛇に出あった。

 詩碑の広場の北側は、沢まで松林であった。松林は、下草や雑木を綺麗に刈り取るのである。落ちた松葉を竹で作った熊手でかき集めて束ねた物を、写真に見られるように家の周りに立てかけておき、燃料にするのである。松林は、杉林や檜林とちがい、何処の松林でも整備された林であった。大きな木の松林の中でねっ転がっていると、木の梢を吹き抜ける爽やかな風の音がす~~と聞こえた。

 写真のなかの家の周りや詩碑の周りに見える松ノ木は、北側に生えていた松林の木と同じ年数を経た松ノ木であろう。松林のほうはもう少し太かったかもしれない。

 「かっぱさんの松林」は、詩碑の庭にあった井戸の地面より、松林のほう地面は約四・五十センチ低かった。この松林の先のかっぱ沢への下り斜面は、杉やら雑木の大きな木が生えていて、その沢の小川の先の北側斜面も雑木林であった。東側に面した崖斜面は、杉の木が植えられていた。北上川辺から望むと、賢治詩碑近辺と獅子鼻の森は、今と違い、鬱蒼とした高台の森に見えた。

 詩碑の東側斜面と南側の一部には、杉の木が植林された事もあった。崖下は胡桃の木等が点在して生えていた。滝清水神社下の湧き水からの小川に、水車を回して流れてきたかっぱ沢の小川が、この崖下で合流し、外台の水田を作っていた。外台の水田は、北上川の洪水と旱(ひでり)の水不足に何時も悩まされていた。 詩[ しばらくだった ] につぎのように詠われている。  上流から水をあげて来て  耕地整理をやるってねえ  容易でないと思ふんだ  こんどは水はあがっても  その費用が大へんだ  とある。

 詩碑に刻まれている 「野原ノ松ノ林ノ陰ノ ・・・・・」 ここは野原のなかでは無かったが、小鳥や小動物の多く来る高台で、森に囲まれた絶景の場所であった。

 写真は ※ 日本文学アルバム12 宮澤賢治  (株)筑摩書房 1968年6月30日発行

 ※ 佐藤隆房著 宮澤賢治 改訂増補版  よりです

2008-03-06

賢治の「下ノ畑」は?

 春と修羅第三集を語るときに、「下ノ畑」の解明が欠かせない。

[ 709 ] 1928,5,2 からはじまり、詩ノート[ 1092 ] 藤根禁酒会へ贈る 1927,9,16までを詠むとき、羅須地人協会活動での一つの基底であったからである。ここでは賢治が「農民となる」宣言をして開墾をした「下ノ畑」にふれたい。

 「下ノ畑」について菊地忠二氏は、四次元1963年4~5月号のなかに

     25アールばかり耕したもの

と、羅須地人協会の隣に住んでいる、当時の協会員であった伊藤忠一から聞いたとして書かれている。

 次は 佐藤成編著「宮澤賢治 地人への道」に、

    耕作した畑は二反五畝(25a)とも一反五畝(15a)ともいわれる。(270頁)と記されている。

 これらと大きくかけはなれた説に菊地正氏 伊藤与蔵さんよりの「賢治聞書」がある。

    先生が働いていた畑というのは、一町歩近くもあったと思います。畑は川流れ(川の増水度ごとよく流される場所)のところでした・・・(2頁)と書かれている。

 賢治研究の虎の巻として最も権威のあるとされている「新 宮澤賢治語彙辞典」には、残念ながら「下ノ畑」や「自耕地」については何も書かれていない。

 以前このブログに、伊藤与蔵からの「賢治聞書」一町歩耕作説に疑問を呈しておいたが、今回再び考えてみても、「下ノ畑」とその近所にある小笠原果樹農園の広さと比較してみても、賢治の開墾した「下ノ畑」の広さは、「賢治聞書」の一町歩説は在り得ない。

 菊地や佐藤が述べられているのが妥当であろう。

 現在 自耕地の場所の正確なことは、耕地整理により不明となった。

  [ 追記 菊地忠二著「私の賢治散歩 下巻」四十二頁にも有りました。]

2007-10-06

下台三例

 

 昨年十一月二日に、「外台」に触れた。説明不充分であったのでまた記す。

 賢治の作品に、「下台」と書かれている例が、三例ある。

 「イーハトーボ農学校の春」 

 「さあ、ではみんなでこいつを下台<しただい>の麦<むぎ>ばたけまで持<も>って行<い>かう、」 この作品には、推敲過程で「第一形態成立時またはその直後」手入れのとき「総ルビが付される。」とある。作者賢治のルビであると言う。

  

 「牧歌」 {「春と修羅 詩稿補遺」}  

 「鉄ゲルの湧く下台の田をやり出した」 「旧 校本全集には、[ とだい ] のルビが付されている(38行目)が、これは作者自身の付けたルビではなく、校訂者の「難読」について適宜ルビを補ったものという。「新修 宮澤賢治全集」には、ルビが付されていない。(90頁) 蛇足であったことに気が付いたのであろうか。

 

 「来訪」 {「春と修羅 詩稿補遺」} 

 「下台ぢゅうの羽虫がみんな寄ってくる」 「校本全集には、[ とだい ] のルビが有るが、これは作者自身の付けたルビではなく、「新修 宮澤賢治全集」でも、ルビが付されていない。(143頁)  

 「イーハトーブ農学校の春」の場所は、旧農学校での出来事であるので、「羅須地人協会」下の、「外台」ではない。 

 「新修 宮澤賢治全集 語註」解説者の小澤氏は、地図にまで「下台」と記してしまった。「新 宮澤賢治語彙辞典」の解説者も間違うのもやむを得ない事であった。

2007-10-01

増水再説

   前回 敝舎について記した。今回もこれについてまた、少し補足をしたい。

 「『新修 宮澤賢治全集』 第四巻 語注(小沢俊郎氏作成)」に、敝舎の解説項目がある。  

  敝舎<へいしゃ> あばら屋。ここは、羅須地人協会の北三00米(稗貫郡根子村桜、大正十二年に花巻川口町に合併)にあった工兵第八大隊 (常駐地は盛岡) の演習廠舎(シヨウシヤ)の誤りか。 とある。 

 廠舎とは、かりや・露舎と辞書にあるが、工兵隊の兵舎の、鉄舟を格納していた所はあばら屋でも露舎でもなかった。小岩井農場の重要建築物に似た、外壁は板張りで、中は土間であった。ここの一部は、戦中に工作機械が設置され、青少年機械工業養成所として使用された、言うなれば立派な建物であった。

 語註 「古川あとの田」にも触れておこう。

  羅須地人協会の南の下台<トダイ>(賢治の自耕畑もここにあった)などは、北上川の旧河床の低地。

 下台は以前にも触れたが此処でも再説する。「春と修羅 詩稿補遺」 牧歌に 「下台」が記されている。語註解説者は、「下台」は「外台」の作者賢治の書き誤りを、トダイとルビを振り、正しい注釈を省略した。地図上では「外台」が正しいのに。 { 古川については、9月11日の [ 滝清水神社 ] でふれた。}

 「賢治の自耕畑」(下ノ畑)は、「外台」に有った事は衆人自明のことであるが、「古川あとの田」からは大分離れた、「田」を耕作するには適さない砂地であった所である。「北上川の旧川床の低地。」ではなかった。

 

2007-09-23

 増水

  二十一日のニュースに、「北上川流域大雨による被害」が報じられていた。

 昨年の十一月初めに「増水」と「下ノ畑」に触れた。「春と修羅 第三集」の『 [ 七三○ノニ ] 増水』本文は、一見理解しやすい詩文である。しかし「校異」を読むとなかなか複雑であることが感じられる。此処では前回の補足をかねたわたくしの疑問を提示したい。

  詩文 三行目と四行目

  鉄舟はみな敝舎へ引かれ

  モーターボートはトントン鳴らす

 当時、鉄舟は工兵隊の舟であったと、わたしは簡単に考えていた。敝舎も工兵隊の兵舎と読んで、何の不思議とも感じていなかった。ところが「新 宮澤賢治語彙辞典」に「敝舎」の解説があり、そこには「敝屋(へいおく)」「粗末な小屋を言ったのであろう。」「北上川に架設された非常救急用の鉄のボートの格納庫をさしてのこと。」とある。 

 さて、校異 (2)下書稿(ニ)の手入れを読むと、「敝舎」の敝にママのルビがある。これは何を指し示しているかわたしには良く解らない。ただ、工兵隊の鉄舟であるなら、わざわざ北上川に粗末な架設用・非常救急用の格納庫などを作らずとも、直ぐ近くに兵舎があるので、敝屋などを作らずともと考えられるのである。下書きでは、[ 工兵たちの→削る ] 鉄舟は になっているのを読むと、明らかに工兵隊の関連で、兵舎をさしていると考えられる。

 「下ノ畑」は他にも書いたので省略する。

2007-09-16

南城組合

 「イーハトーヴォ」に、各地の賢治の会の所在地が載っている。「花巻賢治の会」は花巻町松原南城組合方)になっているが、そこの場所は、豊澤橋を渡って新・旧国道の三叉路少し手前左側ににあった。「○○日夜七時より南城組合楼上に開催す。」とある場所のことだ。昭和14年12月21日発行の第二号には、次のような記事が見える。 [ 花巻 ] 

  「六原青年学校教員養成所主事江刺家磐男氏は嘗つて青笹で部落更正に心血を注いで尽力した時の事を具に語り、作品第1090番を通じて賢治精神を強調し、又農村青年の心理を語つて、会員一同時の経つのも忘れて談じ合い近来にない会であつた。参会者35名。」

 さて 此処で記されているこの作品 1090 [ 何をやっても間に合わない ] は、「カタログを見てしるしをてけて グラジオラスを郵便でとり 」が載っている作品である。十字屋版と「校本全集」との内容は、後部のところが若干のちがいがある。「約五字空白」が十字屋版では「ありふれた」になっていて「そのありふれた仲間のひとり」となっている。最後の所は「何をやっても間に合わない」のくり返し部は無い。 35名の参加者は、第四号に載っている27名より多い。この他の所にも「イーハトーヴォ」に記載されている人で、私の知っている人も何人かはいるが、羅須地人協会を語るのに、これらの人々を出来うる限り今のうちに記録していてもらいたいものだと思う。  

2007-04-29

白菜追記

 浜垣先生のコメント、大変有難う御座います。私の説明不足、申し訳ありません。一部補足をさせてもらいます。

 白菜の品種は、(イ)芝罘郡 (ロ)加賀郡 (ハ)包頭連郡 (ニ)愛知郡 その他

各郡からの育成系統は省略します。(イ)芝罘郡系の「松島系品種」の説明を追記しますと、「郡としての最も明確な特徴は、1)葉肉がうすく葉数型であること、2)全般的に葉面のちぢみが強く、毛茸が多いこと、3)軟白に比較的低温を必用とすること、などである。」

 また、「結球形状では、抱合砲弾型から包被円頭型など、きわめて多数な変異を示すが、そのうち抱合砲弾型は他の郡にはほとんどみられないので、これは芝罘郡の一特徴とすることができる。」(前参考文献の品種特性と作方適応性より) 賢治の作品にあります両型が「松島系品種」に有ったのです。

 問題の(ハ)の包頭連郡は、野崎三号、雲仙包頭連、青邦包頭連、松島白色包頭連等ですが、この品種は東北では栽培が難しいと考えられています。007

左の写真で中程の山東型は、松島系品種を現していますが、これについては前回ご説明したので省略させていただきます。

次に「琿河か遼河の岸で」の解釈ですが、これはキーデンノとの関連からにても「北上川の岸」での比喩とわたくしは詠みますが、白菜畑との関連で詠まれるのはどうでしょう。「語彙辞典」にも力丸さんの引用がありますが、しゃれまでとは申しませんが一つ一つの作品を見極めてほしいと申しあげましたならば、苦言過ぎますでしょうか。

 わたくしは「下ノ畑」を賢治の作品にそって詠みたい。白菜や当時の育種学の研究者ではありませんし、ましてや賢治研究者でもありません。賢治の羅須地人協会当時からはあまりにも変わりすぎている現代のなかで、ほんの小さな地区のみしか知りませんが、それもボヤケてしまっています。ですからここに書きましたことが正しいなどではないのです。誰かがそう云ったとか、こう思う、詩の世界ですからどうよまれてもいいのですが、在ったか無かったかとか、検証云々については、詩的言語ではないはずです。ですから文言については責任を感じていますが、わたくしにはそれを解く力はありません。「下ノ畑」を知りたいだけです。解らない事だらけです。ご質問の主旨に沿わないめんはご容赦下さい。

 

2007-04-27

白菜の生産

 「宮澤賢治の詩の世界」から、此方のブログに身に余る光栄のトラックバックがあつた。「賢治の愛したバラ」の資料や「石鳥谷肥料相談所」の明察等、ブログ上でのご活躍は高く評価され、賢治研究者に注目されておられるところだ。

 さて、4月24日の「宮澤賢治の詩の世界」に「白菜の種子」と題して、「賢治が白菜の種子を『横浜植木』から買ったかどうかはわかりませんが、地元花巻で白菜の種子は売られていなかったでしょうから、賢治はどこかに注文して買うしかなかったわけです。」とあります。

 「地元花巻で白菜の種子は売られていなかったでしょうから」とありますが、何か資料がおありでしたならば、是非ご教示お願いしたいのです。006_2

写真は「日本地理体系 5 奥羽篇(改造社版)昭和五年十一月三日発行からのものです。仙台白菜は昭和三年度に各駅の発送数量は、一万五千三百二十二トンと記載されています。「春と修羅 第三集」のころは、右の写真の記事から見ても、花巻でも一般家庭をも含めて結構な数量が生産されていたものと考えられますが、「白菜の種子」が何処の何と言うお店で売られていたかは、そこまではわたくしも調べていません。何れにしろ、前にも記しましたが「松島系」の白菜は逸早く取り入れられて栽培されていた事はまちがいないのであると考えられるのです。

 岩手畜産牧場厨川分厩跡に園芸試験所東北支場が明治四十年に分設、後に園芸試験所盛岡支場となっているので、詳しい事をお知りになりたい方は清野所長さんにでも、お邪魔にならない程度にお聞きされてはと思います。岩手の農業関係の研究者は、早い時代から育種に力を入れて居られたようですよ。

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