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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

日記・コラム・つぶやき

2011-01-06

父の事故

 わたくしの父は電気工事中に事故死をした。当時軍国少年であったわたくしは、国のために敵との戦での名誉の戦死でなかった父を羨やんでいた。

 故郷を放れてからのだいぶ時間が経ってから、家庭団らんの明かりを灯したり工場の動力源や社会になくてはならない電気の仕事は、世の中に少しでも役に立っとのおもいと誇りの仕事での死であった父のことを知ったとき、わたくしはなにかほっとした。それいらい父の勤めていた会社に、少しの興味を懐いていた。

 昭和二年七月に盛岡電気工業から盛岡電灯に改称され、昭和十三年十二月十四日に奥羽電灯に改称されるまえの盛岡電灯時代の高圧送電検査時の父の事故死であった。電気事業法により東北配電になるまえのことである。

 盛岡電気工業のおこりの盛岡電気は、明治三十七年十万円の資本金で、岩手県最古の電気会社として社長清岡等で設立、38年9月に開業し、40年9月に宇津野発電所を建設、41年の時点で社長清野等、主任技術者坂本潔(岩根橋発電所の立役者 後に触れる)。供給地域は盛岡市他6ヶ村、発電所は築川に宇津野発電所300キロワットであった。

つづく 

 

 

 

2010-02-24

049 

   箒 ほうき

  宮澤賢治の羅須地人協会に詩碑ができてから何年くらいたった時期であったろうか。

 日曜日の朝、写真とおなじ箒をもって掃除に行ったある日の事であった。わたしらが帰るころになって清六さんが着物姿で だぁお ダァオ~~~と 歩いてと来られた。病み上がりのころだったのかも知れない。

 ときどき田中屋さん(高橋慶吾さんが居候していた店)で、飴玉を買ってきて、私等にふるまってくれた(飴玉は一銭で六個きたが、子供のわたしたちには一個まけてくれた)。

 田中屋さんは、牛乳やとうふも売っていたので、店を開けるのが、朝は早かった。(学校では神社仏閣などの朝掃除の奨励をされていた当時のはなしである。)

 さて、写真の箒であるが、最近見かけない。PC画像でもなかなかでて来ない。この箒は花巻の方に探して送ってもらった。「農協にお願いしてさがされた」そうである。

 農家では農事用の掃き掃除にはかかせない品であったのに、わたくしは、この箒の材料がなんという植物名で有ったのかは、雑木林でよく見ていたが知らなかった。

 板橋区立赤塚植物園に持ち込み教えを乞うてきた。

    つつじ科 ほつつじ

であった。お礼を申し上げたい。

  「むかし、ほうきに使ったことからヤマボウキとも呼ばれる。」とある本に出ている。

2009-08-16

松田甚次郎と南城小学校の事

 

 太平洋戦争が始まってまもなくの頃だった。

 宮沢賢治の羅須地人協会近くの南城小学校の校庭で、朝礼のときだったと思う。戦闘帽をかぶり、国防色の国民服姿の威勢のよい人が壇上で挨拶をされた。そしてそこでは食糧増産を熱っぽく話された。

 小学校には、校庭の南側道路を挟んで学校の畑があり、ヤギやウサギ小屋等も有ったが、畑にはジャガイモ等が植えられていた。

 畑の西側には杉が植林されていた。この杉林はまだ十年ぐらいしか経っていなかったように思う。二反歩程はあったと思う。ここをわれわれの見知らぬ先生が下見をされていたのであろう。ここの杉の下には笹も生えていた。見知らぬ威勢のよい若い先生は、この杉林の開墾の必要を説かれて帰られた。おかげと云うか小学生のわれわれは、来る日も来る日も先生やこずかいさんと一緒に木を切り、笹と木の根を掘り起こした。一年半に及ぶ開墾であった。

 戦闘帽の威勢のよい見知らぬ先生とは松田甚次郎であった。松田を怨んではいないが、同じ山形の真壁仁氏とは思想的にも異なる。また両者は賢治に触れているが、わたしにはこのような事があったので松田を好きになれない。かっての軍国少年であったわたしがであるが。

       (南城小学校⇒南城尋常国民高等小学校

  

2008-03-06

休息・お詫び

 ながいこと休みました。

新年の挨拶もせず、三月になりましたが、また老人の呟きをぼちぼち書き出したいと思います。

 こちらにお出でくださいました方は、間違いやら失礼な文発見次第、是非ご教導の程

宜しくお願い致します。

   ヤジュル

2007-10-21

ドイツトウヒの森

 我が家の近所で板橋区民祭りが、昨日と今日行なわれた。「地球環境と交流のひろば」の「信越高原」会場に、「ドイツトウヒ」の大きなマツカサが、苗木や盆栽を買われた方に「おまけ」として配られていた。005_3002_3  妙高高原から笹ヶ峰牧場に行く途中に、地図<写真>に001記載の「ドイツトウヒの森」があるという。 ここの森からの贈りものということだ。

 賢治語彙辞典によると、賢治の時代の説明だったのであろうか「日本でも東北地方と北海道にいくらか造林されており、[途中略] 岩手大学(旧盛岡高等農林)にもみごとな大木がある。」と。

 『「ドイツトウヒの森」には、「森の学び舎」から徒歩で行かれる以外ない。熊にご用心。ものすごく広いですよ』 と会場で親切な説明を聞いてきた。  ご存知の方もおられるでしょうがわたくしは初めて知った。                                                                                                                                                               

2007-05-29

喋事<しゃべこど>

Photo_1 花巻地方方言 

岸根武司著 昭和61年8月25日初版 90頁

岸根さんは、花巻市高木古館に

          昭和二年のお生まれの方なそうです。

 佐々木善助さんよりもお若い方です。

2007-03-10

活動的経験

 「われわれは現在、科学や技術という言葉が、日常語として十分通用する世界に住んでいる。しかしこれらの言葉の、日本語としての歴史は意外に短いものである。五十年、百年と歴史をさかのぼってゆけば、まず技術という言葉が、いずれ科学という言葉も、どこかにまぎれこみ、ついには姿を消してしまう。明治維新のころまでゆくと、もはや科学・技術という言葉の存在しない世界へふみまようことになる。」辻哲夫著『日本の科学思想』の書き出しです。賢治の時代を考えさせられる文です。賢治が「化学本論」やオストワルドの新しい知識を得ると同時に、ジェームズに感心を示したのに付いては頷けます。先生の仰るとうりで、「語彙辞典」でも取り上げていますから、ここではこれ以上は省略させてもらいます。「多元的宇宙」の附録「活動的経験」には、「感覚乃至感情」や「物理的な諸現実」の類別、また「心理的な要素・・・感覚的効果・・経験群の認識論的規範を探求するのでなくして認識の印象性を追及する」等が述べられているそうです。感心のそそられるところです。

 001スピリチュアリズムについては、ジェームスからよりもメーテルリンクやオリバーロッヂか002_1 らではないかとかんがえています。エマーソンと同じ玄黄社から「死後は如何」「死後の生存」が出ています。ただ賢治の神秘思想についてはどなたかがお書きになっていますが、ジェームスとの関連は書かれていなかったように記憶しています。もしお解りになりましたならばご教導お願いしたく存じます。

2007-03-09

ジェイムズ

 「宮澤賢治の詩の世界」に、『ウィリアム・ジェイムズと「宗教のふるい分け」』と題して賢治とジェイムズについて、いままでの氏の論の総決算ともとれるようなお考えがのった。このコーナー(ホームページ)のオーナーは精神科医で、ジェイムズについては専門のぶんやである。わたくしは賢治を考えるときに真っ先に先生のこのホームページを利用させていただいている。医学についても賢治についてもまったくの素人の私がこれに触れるのは、きがひけるが意を決して少し触れたい。

 先生は2005.5.21年に「ウィリアム・ジェイムズ名前いろいろ」と題されて「春と修羅 第二集」の作品に触れ、「ジェムスの翻訳書は、この『宗教的経験の種々』である可能性が高いのではないかと私は思うのです。」と制作年代等に触れながらお書きになられている。

 わたくしはどうも先生のご指摘の本ではなく、比屋根安定譯「譯全 宗教経験の諸相(人間性の研究)」のほうではないのかと感じています。(いくつか写真を上げておきます)004 002 006 006_1 008 012 011_1 014 014_1

ここに四種類の本があります。ご覧になりにくいかもしれませんが少しだけ説明します。

 西田幾多郎の序がある「宗教的経験の種々」と、同じ西田の序がある「宗教的経験の諸相」は、発行所がちがうのと、訳者の序文のちがいだけで、内容は同じです。

 もう一方の比屋根の譯は、これも発行所がちがいますがなかの内容は同じで、新しいほうは索引があり便利かもしれません。(ここでは岩波の文庫本及び「全集」は別に考えます)

 西田が薦めるのには「漱石とジェイムズ」との関連や、賢治とにおよぼした影響はないとはいえないでしょうが、『種々』のほうには第十講までで、聖テレサや十字架の聖ヨハネの記されている第十一講から十五講までがないのと、それいごの「神秘主義」等がなかったのです。警醒社書店版は大正十一年十月発行ですから、こちらのほうが賢治好みに見えます。(ヨハネとテレサについては以前少し外で触れたことがある)

 賢治好みと書きましたので余談ですが、こんなことを思い出しました。大正七年六月九日にオストワルドの「無機化学原理」(英訳)を仙台で他の著書と一緒に買い求めていることが年譜に出ています。オストワルドの「近世 無機化学」は明治三十七年にそして、四十一年に再販された千六百頁もある本で 約七センチもある厚い本ですが、それを彼は見ているはずであるにもかかわらずであるのです。池田菊苗の訳は「売価金四円五十銭」であった。仙台での賢治は「この時に買い求めた本は四冊 十六円五十銭で、なお二冊原書の取り寄せを丸善に依頼」とあります。(つづく)?

2007-03-01

コメントお礼

 「壺中の天地」に貴重なるコメントをお書きくださったお礼を記したい。

 数度にわたってコメントを戴いた大内秀明博士からは新刊の「恐慌論の形成」と「ソフトノミックス」の二冊を頂戴した。高価な著書で恐縮の至りである。大内博士には東京大学出版会から「価値論の形成」と共著の「経済学概論」があるが、門外漢の小生には懐かしい思い出があるだけである。「価値論の形成」は宇野「価値論の研究」とを対比して誰かが話をしていることをこんかい思い出させてくれた。(「賢治とモリスの館」にお書きになられているご研究には、小生の思いについて後ほど書きたいと考える。)

 朝日新聞二十六日(月)に「経済学で何がわかるか」が出ていた。お読みの方も多いことであろう。これとは直接関連はないが、大内博士の「価値論の形成」は資本の価値増殖について働く者の交換における対立側の研究がどのようなものかを語っておられたように思う。新聞の論と博士の研究とを今一度考えてみたい。

 賢治の「雨ニモマケズ」に、「アラユルコトヲ / ジブンヲカンジヨウニ入レズニ / ヨクミキキシテワカリ」とある。ヤジュルの言葉からから、今回からは賢治の言葉にかえてわたしも「ソウイフモノニ 」なりたいをモットーとする。

2007-02-27

春近し

我が家には庭がない。いちにちじゅうお日様があたるところもない。

入り口のまえに物置があり、その上に草花の鉢が幾つか置いてある。

昨年も写真でお見せしたさくら草が、我が家でもやっと芽が出てきた。011

最近中尾佐助著「花と木の文化史」をまた読んだ。

ガーデニング流行であるからだ。二年目のチューリップが

妖精のよう咲いた花をブログで見た。岩手山や早池峰山が見えるところが

羨ましくなってきた。013

賢治研究者には良く花について書かれているが、わたくしは

感心する。古来種のさくら草が今年もなんとか咲きそうだ。枯れもせずに。家内が信用金庫で戴いてきたさくら草とならべてみた。きょうは彼女の誕生日だと言う。ほんとうは賢治の誕生日がわたくしには気になっている。010

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