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陸中八重畑村の名子制度の現状

  • 山口弥一郎: 社会経済史学 昭和十七年五月

2009-09-01

斎藤宗次郎と宮沢賢治の通った校舎

 南城尋常高等小学校の旧校舎は、かっては斎藤宗次郎や宮沢賢治が学んだ校舎である。宗次郎は1889年に新設されたばかりの稗貫高等小校学に通うために小瀬川新太郎方(養母・こんの実家)へ寄寓され、そこから通い始めた(二年後には母の甥方に移る)。また賢治も同じ学校に1903年四月に入学した。

 佐藤隆房著『宮沢賢治』には、「母校花城尋常高等小学校(大正末年撮影 故人の通つた校舎は焼失しその跡に再建したもの)」として、町役場の東南鐘つき堂のある校舎の写真を掲載しているが、宗次郎と賢治が学んだ校舎は南城に払い下げ移築されていたので、この『宮沢賢治』の記載は一部間違いである。賢治の二年生12月に移った新校舎は焼失したが、入学当時の校舎は残っている。{詳細は「賢治の小学校時代」参照}

 南城に移築された校舎の二階の「奉置所」室は職員室として使用された。「第三学級」の教室は学校中で一番騒々しい学級が入れられた。教室と職員室の堺は板壁で少しの騒ぎでも職員室に筒抜けであった。騒々しいと他の先生が飛んで来た。必ず担任の先生から「罰」が下された。この「三学級」の教室に小生のクラスも入れられた。校舎の左奥「小使室」の外側には釣瓶井戸があり、作業の後などにはこの井戸を使用した。思い出の校舎である。

2007-12-16

加藤謙次郎「証言」

 水野達朗氏の 「賢治の『勉強』 -外国文学・思想受容の契機」 と題して研究発表が、宮澤賢治研究会の例会で有りました。

 配布が有りました資料に、

 ①(明治四十四年度の二学期(又は三学期)に寄宿舎で同室した藤原文三の証言)として

 とにかく変わっていて汚れ物はかまわず押入れにつっこみ、教科書は見ず、「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたのに驚いた。<前後略>(新校本宮澤賢治全集 第十六巻{下}七二頁)

 ここで小生が、押入れについて一部誤った発言をしました。お詫びをして、次の資料をご提出します。記憶違いもあるやもと、お話しましたが、誤解が生じかねませんので、訂正をします。お話しました内容資料の出所は、以下の「証言」記事からのものでした。ご参照下さいますようお願い致します。

また、『あゝ青春 盛岡第一高等学校 白亜外史として』(毎日新聞社 盛岡支局)とお話しましたが、それでわなく、発行所は読売新聞社 盛岡支局でした。(最後の文章は 「治のすべてなんです」が追加してお読み下さい)Img_0002 Img Img_0001     <画像上、右クリックで「リンクを開く」から、移動でご覧下さい>    

2007-12-09

{ 濃い雲が二きれ }

 今年も残りわずかになって来ました。なんとなく気になる「課題」がいくつかあり、何とかしなければと考えだけがよぎる。

 「735 饗宴」と「738 はるかな作業」の二つの作品の間の「736 { 濃い雲が二きれ } 」と言う作品もその一つである。「饗宴」と「煙」については、以前少し検討した。

 4月10日と4月12日に、ここのブログで、煉瓦工場と瓦工場の違いにふれた。小澤俊郎著「薄明穹をいく」におさめられている「煉瓦工場」のなかのことにふれたのであった。

 小澤氏は、「はるかなる作業」の作品と「煙」の作品は「一ヶ月後、同じ場所で似た題材を描いている」(88頁)としているが、賢治が「同じ場所で二つの作品を詠んだ」事なのか、それとも「二つの作品が同じ場所の事を描いたものなのか」についての、その曖昧さ加減を指摘したつもりであったのである。読み返してみると小生もいい加減なところだらけであった。

 前の二つの作品の間にある{ 濃い雲が二きれ } については触れずじまいであったので、このなかの四行目の「雷沢帰妹」に触れておこう。

 雷沢帰妹は易では次のように説明されている。

  帰妹は征けば凶。利しき攸无し。

  彖曰。帰妹は天地の大儀也。天地交はらざれば万物興らず。帰妹は人の終始也。征けば凶とは位當らざる也。利しき攸无きは剛柔に乗れば也。

  象曰。澤上に雷有るは帰妹。君子以て終を永くし敝を知る。

 {帰妹(きまい)はゆけば凶で、よろしきところがない。

 たんにいはくは、「彖傳からの卦形の配列」をいうのであろう。}

 他に「三だとさ」は、爻の名の三爻の事か。詳細は専門家にご教示をお願いしたい。

 蛇紋岩の青い鋸風に視えるシャーマン山は、九月の初めなのに日が射してはいるが、向こうはもう寒いのだと言う。早池峰山でもよいのだが、桜からでの見える山であるなら、朝ならば西の和賀仙人の鋸風の切り立ったあの山ではなかろうか。懐かしい山である。岩手山とほぼ同じ時期に、初冠雪が見える山でもある。此方の山から雲が出だすとあっという間に花巻から南側の平地の天候は、怪しくなるのである。

2007-10-12

広瀬正明氏の論考を読んで

 宮澤賢治学会イーハトーブセンターから今年もAnnual が届いた。

昨年に続いて広瀬正明氏の興味ある論考が載っている。

 此処に書くのは、専門知識の無い素人のわたくしの読みだから、間違いだらけばかりだと思うのであるが、非才を省みずに感想を述べ恥をかく。

 最初に、昨年の論考「紫雲英と石灰による有機農法」-ある化学計算ノートにみる賢治の構想ーに少し触れたい。「三集」の「饗宴」に、(紫雲英<ハナコ>)が出ているからだ。わたくしのレンゲソウの肥料の知識は、吉村清尚著 最新 肥料学講義 弘道館発行である。初版は大正十年七月十日で、訂正増補七版 昭和二年六月十五日発行のものをみている。第七章 植物質肥料のところからが、主なるものである。このなかの「紫雲英」と関連があると思われるところは、緑肥の効果等や、組成、それに成分表などが見られたりする所(251頁)、また「小野寺氏の研究によれば、紫雲英を水田に多量に施し稲作に有害作用を呈する場合の主なる原因は、その分解の際にメタン・炭酸瓦斯等多量に発生し、水稲根に有害作用を及ぼすと同時に土壌中に酸素の欠乏を来たさしめし水稲の栄養を妨ぐるに基づくものの如し。」(244頁)等である。 此処に出てくる「小野寺」は2月28日に記した「肥料学汎論」の著者である。広瀬氏も他の資料で注目して論じている。またこんな記事も視られる 「一反歩の紫雲英が開花迄に空気中より摂取同化する窒素の量は、二貫二百六十匁にして、人糞尿の十八荷、若くは魚肥の二十八貫に相当すべしといふ。」(255頁)。 その他この本には販売肥料の価格表や肥料試験(第十六章)があり、附録には肥料分析表が出ている。この本は当時の教科書として使用されていたのかも知れないと思える。明治時代の「肥料学」は、博文館「帝國百科全書」に視られるように肥料各論第一章人糞と云うような感じであった。昭和の初めになると、小野寺の「肥料学汎論」に見られるような新しい感覚の内容と形式の書になる感じである。 次に

 今年の論考は『「青森挽歌」における賢治の生命観」-化学の視点でたどる物質と精神の位置づけ』である。此処でも広瀬氏の参考資料と小生の視ている本の違いを述べておきたい。氏は『「意識ある蛋白質」の科学」を述べ、、「化学本論」やその他の著書を挙げている。

 「物質と精神」については他に記すとして、「賢治の生命観」について、主にヘッケルを採り上げられている。結論から言うと私は広瀬氏のこの論と関連ある著書は、大日本文明協会の「生命の不可思議」に付いては疑問を持っている。この本ではなく、「生命の不可思議」の同じ訳者の後藤格次が、同じ大日本文明協会から出版された「オストウァルト 価値の哲学」であると視ている。オストワルトに付いては「化学本論」の序文にも二度ほど名前が出ているだけではなく、本文の第八編 第二十八章に詳細に記されているのが視られる。また、堀尾青史著 「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)98頁に、仙台で「無機化学原理」を買った事例も出ているからである。「価値の哲学」の第二篇 応用の 第十二章 心理学上の方向現象竝に意志 118記憶の物理化学的起原で、蛋白質の化学的性質等を記している(329頁)。直接今回の論とは関連はないが、トロピズム作用説があり、毛細ガラス管の林檎酸運動が説明されたりしている処等が面白い(312頁)。ヘッケルの一元論でなく、オストワルドの実證論的認識の立場が、賢治の生命観に適しているのでわないかと思える。有機酸の研究ではアレーニュウスの説を実験的に強固にしたり、フアント・ホッフ等と共に新学説を称えている。広瀬氏の論の補強の意味でオストワルドを採り上げてもらいたいと感じた次第である。

2007-10-09

『「牧歌」の背後』

 栗原敦氏の『「牧歌」の背後』を読んだ。

もうだいぶまえのことだが、嶋二郎さんと飲んだときである。

「栗原さんは我々よりも、賢治作品に出てくる地名や場所に関してはよくご存知ですね。とてもあそこまで全般的には分からんよ。」と云うことで一致した。『「牧歌」の背後』もそれに違わぬ内容である。

 氏の『「牧歌」の背後』は、「牧歌」を読んで、当時の時代状況を知るうえでは参考になるが、「牧歌」が「名子制度」を「背後」としているとするのはどうだろうか。

 「太田」に付いては解るが、「辻堂」はどこだったか。そして田植えの場所は何処であつたのか。次に、忠一さん(甲助)や喜助さん(キスケさん)の参加している田植えであるならば、栗原氏の「牧歌」解釈の「背後」としての「名子制度」は、氏は疑問を持ちながらではあったが、はたして現実的であったかどうかである。

 氏が云う「名子制度」の残存であるなら、「饗宴」での状況はどう読んだならよいのだろう。仮定として宮澤家であったならば、小作人はあのような態度はありえないであろう。菊地正「伊藤与蔵聞き書き」に、飲み代の寄付が書かれているが、そこに書かれている地主は、島和衛門と宮澤家だけである。他に地主は出てこない。この両家は田畑は貸していたが、「太田」からまでの加勢が必要とする程の自耕地は、この近所には無かったはずだ。宮澤家では「名子制度」的耕作はなかったと思う。島和衛門の子供で次男の嫁は、わたしの祖母の姪であった。兵舎の入り口右側の屋敷近辺の畑を、祖母が良く手伝い仕事として耕していたが、其の程度の自耕地はあったが自耕田はなかった。「太田」地区にも土地を所有する地主で、忠一さんまでもが参加させられる地主であるなら、誰であったのか。

 「牧歌」で詠われている場所は、外台であることはまちがいない。外台の崖下側は地下水の染み出る「鉄ゲルの湧く」所でもあったし、「みんなで崖を下りて行き」とあるからだ。そして参加者が特定できる。とすると場所は賢治の住んでいた崖下から、せいぜい南城小学校下近辺迄であろう。その崖沿いの田であることが特定できる。「結い」に付いてなら考えられなくもないが、わたくしは次のように考える。

 また私事で恐縮だが次のような事実を述べたい。母は近所の嫁三・四人で似内に田植えや稲刈り時に、「手間取」に二・三日行った。「ほまつしごと」と言って、この時に得た収入は、農家の若い嫁の、唯いち自由に使えるお金でも有ったのである。其の地区によって、このような事が長く慣例化されていた。桜の部落でも、「ほまつしごと」での集団(大げさに言うと)が幾組みもあった。森口多里著「町の民俗」に、「南部の手間取」に、「出稼ぎ男」を面白おかしく書かれているが、ここでは、若い嫁にあえて農繁期に、「ほまつしごと」を与え、最っとも重労働で辛い時期を乗り越えていくというある制度の、知恵であったのかも知れない。毎年おなじ地域で仕事をするという事は、それなりの配慮と気遣いが、長続きの必要条件とも言えるのである。「牧歌」は、ある農家の田植えの情景で、地元の人々と、「太田」からの「ほまつしごと」の「手早い娘」達とを詠われた、このようには読めないものだろうか。「牧歌」の「背後」(背景)は、「名子制度」では有り得ない。また「昔からの庇護に対する報恩としての労働提供」でも無いのである。この地区(桜や外台)は、農地改革以前でも、「オラホの村は宮善の村です」とはい得ない。

2007-09-13

労農詩論三講

 桜の詩碑の隣に住んでいた伊藤忠一さんが書き残した、「労農詩論三講」 があるります。

 「イーハトーヴオ」 第四号(昭和15年2月21日発行)には、「芸術の定義」のところに次のように書かれている。

  トルストイの芸術定義

 芸術とは情緒を他人に感染せしむる手段である。

  ブハーリンの芸術定義

 感情社会化の手段である。

  ウイリアム・モリスの定義

 労働に於ける愉悦の表現である。

    快 = 苦痛ヲモ享楽ス + 同情

 創造には個性を有す、そして理想を有す。

 即ち一つの夢であって、無限性を有す。

 理想は個性を通し言葉音楽となりて表現さるゝものである。

 リズムの有る語・・詩である  

                        後方

      理想   ----  感情                                         

 詩とは・・胸一杯に溢れて一定のリズムを以って溢れ出ずるもの。 

(配置 線構造図は概念図です。記 ブログ作者)

 忠一さんのこの「労農詩論三講」は、次のような書き出しで始まっています。

「この稿は昭和元年二月羅須地人協会の集会の日、宮澤先生が「地人芸術論」として口述されたものを聴いたまま筆にとまつたままの記録であります。先生は、要項だけをボールドに書き、まだ草案に過ぎないから、筆記してはいけないと申され、当時の私には、この講義はむづかしすぎて途中でいねむりしたりしていたのですから、よろしく御判読願ふ次第であります。」<以下略>

 

 「農民芸術概論」等に関連しての見逃しの出来ない参考資料の一つでは無いかと思われる。

2007-09-09

室伏のモリス観その他

 「農民芸術概論」と「土に還る」との関連については、上田哲氏の論考に詳しく、これ以上につけくわえることは無いのですが、室伏の次のような文があったので参考までに記す。

 「第四章 機械の論理」 「[一] 近代文明は機械の結果である。」と書き出し、結びは「ロオド・バイロンは晦々たる短見者流である。ラスキンは田舎者、モリスは天保銭、トルストイは正にイワンの馬鹿である !」(前回の写真8枚目)。

 「倫敦が幾つかの田舎町に分裂し、商業中心地が貧民住宅地となり、牧場ができ、田園が起こり、ウエストミンスタアが肥料市場と化した。---モリスの記しているところは、われわれの世に、永久きたることなきユトピアであろうか。」(106頁)

 モリスの名前は外にも見られるが、次にアダム・スミスについての室伏の採りあげているところを紹介しよう。

 「資本主義の時代においては、農場は最も不利益な企業である。アダム・スミスの時においてさへ、彼がその民冨論で述べているところによれば、農業は既に欧羅巴における最も不利益なる企業であった。今日は益々その度を高めてきた。農村飢えて死なんとするは、たヾ小作農だけであるのではない。自作農と雖も、地主と雖も、苟くも農業企業にかかわるかぎりにおいて、今日は最も多くの不利益を分配されているのである。農業それ自身が貧困なのだ。都会のそれに比べて、農村それ自体が窮乏なのだ。」(262頁)

 ところで次に、多田幸正氏が「宮澤賢治とウイリアム・モリス ー<芸術>と<労働>の関連についてー」の論考が有る。以下少々長いが引用するのでお付き合いをお願いしたい。

 「モリスの芸術観=労働観について説明しようとするとき、もっとも簡にして要を得た便利な言葉が、」「芸術とは、人間の労働における喜びの表現である」。「これは先の室伏の『文明の没落』にもひかれているものだ。たったこれだけの短い言葉だが、ここには確かにモリスの芸術観ー労働と芸術についての考えが集中的に表現されている。」「この労働の喜びの論理は、モリスが芸術を考える際の中心的な問題というべく、彼の著述や講演の中で繰返し論じられている。例えば、『民衆の芸術』では、『私の理解する真の芸術とは、人間が労働に対する喜びを表現することである。その幸福を表現しなくては、人間は労働において幸福であることはできない』とし、さらに『この真の芸術とは、それを制作する人にも、それを使用する人にも、幸福なものとして、民衆により、民衆のために作られた芸術である』とのべている。モリスにとって斯かる芸術こそが、『存在しうる唯一の真の芸術』であり、『世界の進歩の障害ではなく、手段となる唯一の芸術』であった」(日本文学 1981・10 67頁より)

 「モリスもまた、土地を耕すことがあらゆる仕事の中で『最も必要で最も愉快な仕事』(「有用の仕事と無用の労苦」)だといい、農作業をして、人間が『みずから進んで精力を用いることを楽しいと考え』(「芸術の目的」)る理想的な仕事であることを強調している。いや、『ユートピアだより』に描かれている乾草刈りの場面を一読しただけでも、モリスがいかに農作業のような野外の仕事を重視しようとしていたかがわかろうというものだ。そこでは(もちろん、ユートピアの世界においてだが)、人々は陽気に語り合いながら、『ゆっくりと、しかも上手にたゆみなく働いてい』る。その仕事が『楽しい習性』とさえなっている。彼等は、この乾草刈りの仕事をも含めて、あらゆる労働の中に『自覚された感覚的な喜び』を見出しているのであり、言うなれば『芸術家としての仕事をしている』のである。」(同70頁より)

   多田氏はモリスの引用文献として、

 本間久雄訳「吾等如何に生くべきか」(東京堂書店 大正14)

 大槻憲二訳「芸術のための希望と不安」(聚芳閣 大正14) 

  [ 「民衆の芸術」と「ユートピアだより」は、岩波文庫を参考にされたのか。]

 モリスの「無何有郷だより」と,室伏の「土に還る」はこのへんでわたしの作文はお終いにして、この後はこれについての興味のあるかたの皆さんにお願いといたします。

2007-09-08

宮澤賢治の室伏論メモ1

  室伏高信

土 に 還 る  

  「汝は面に汗して食物を喰ひ終に土に帰らん。汝はその中より取られたればなり。」

         一

 都会万能の夢は破れた。都会万能主義の行詰まりは最早やあまりに明らかになつてきた。十九世紀が農民没落の時代であつたのに対し、二十世紀は都会没落の時代であるべく、凡ての徴候が既に熟した。

 人々の眼は期せずして農村に向かつてきた。政治運動も社会運動も若しくは芸術上の傾向さえも、今や漸く都会から農村へと彼等の視線を移したきた。  (本文243頁から)

 宮澤賢治

(イ)「農民芸術概論」と(ロ)「農民芸術概論綱要」と(ハ)「農民芸術の興隆」という三つの稿がありますが、(ロ)「農民芸術概論綱要」の中の「序論」の次にある「農民芸術の興隆」と、(ハ)「農民芸術の興隆」の最後の行に、

 都人よ来ってわれらに交れ 世界よ他意なきわれらを容れよ 

とある。 

 上田哲著 「宮澤賢治 その理想世界への道程」に、「宮澤賢治と室伏高信」-「農民芸術の興隆」における賢治の文明批評ーがある。

 上記の [] に、「文明の没落」や「土に帰る」の『本には直接的に「農民芸術概論綱要」や「農民芸術の興隆」と符合するような文や語句は見つからなかった』としながらも、『室伏高信の宮澤賢治への影響は否定できない』としている(264頁)。またさらに「羅須地人協会での農耕生活の実践により影響を与えているようにも思える」とも結んでおられる。

賢治はこの「農民芸術概論」で、農民としての直接呼びかけている語句は一箇所、次のように呼びかけているところが有るだけだ。

  農民よ奮い立てそしてわれらの---の表現を持て

農民芸術を説くのであるからわざわざ農民と記さづとも われら で良いのであるが、これは賢治は農民であるとしての自覚からとして捕らえてよいのであろう。賢治が農民かどうかは別としてもである。

 [] には「文明の没落」の解説と、更に緒論との関連の解説をされた後、「土に帰る」にも触れている。些細な事であるので恐縮だが、ニ三気が付いた事を記しておく。

 私の所に有る大正拾五年五月二十日版(昨日の写真参照)は 定価 金一円六十銭になっている。この本は増補版であるのか。解説によると定価が一円とあるが。また発行部数に付いても分かりにくい。一万一千部掛ける三十版の数は少々多すぎるかもと思われる。

 次に本文の三百七十四頁に記されている所に、おそらくミスプリだと思われるが、267ページの鍵がは「霊が、」で、272ページは「281ページ」の間違いであろう。(わたくしの本が違うのかもしれないが)

 上田氏の論は羅須地人協会に付いての解説が良くなされている。「語句の一致点はなかなか難しいと思える」事に付いては、わたくしだけではなさそうで安心させられた。

2007-09-07

「土に還る」

 モリスの「無何有郷だより」を前回採りあげたのですが、誤解を招きかねない記しかたがありました。それに付いての補足は何れかのきかいに譲るとして、今回は室伏高信にふれてみたいと思います。

 「『農民芸術概論』三篇、とりわけ『農民芸術の興隆』には、室伏の影響がある」とされ、西十二丁目の伊藤清一さんの「筆記帳には、室伏高信の名がはっきり記されており、賢治の講義中に、その名を挙げて説明を加えたことを示している。」と言うことです。(新修  宮澤賢治全集 第十五巻 解説 入沢康夫)

 此処では、室伏高信著「土に還る 文明の没落第二巻」の写真の一部を紹介いたします。

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 次回写真についての若干の説明をしたいと思います。

2007-08-14

『「無何有郷」(むかうのさと)だより』

W・モリスの「無何有郷(むかうのさと)だより」布施訳は、管見では直接賢治との関連で採り上げられている論考は無い。

ただ 「賢治とモリスの館」の「堺利彦『理想郷』の検索」で、堺の抄訳「理想郷」(平民文庫)の解説の終わりに、「大正14年(1925)に布施延雄の訳もある。これは『無何有郷だより』と題されている。」と触れられているだけである。

「新 宮澤賢治語彙辞典」のWim.Morris の項には、

<前後略>欧米の芸術運動にも大きな影響を与えた。叙事詩「地上楽園」(1869~1870)や、彼の思想を盛り込んだ小説『ユートピア便り』(1890)等が主著。賢治が英語でそれらを読んだか、訳が出ていたのか未詳だが、大正期の評論に紹介や言及はされていたから、賢治のイーハトーブ思想や農民芸術観への影響関係はこれからの課題。     とある。

「無何有 之郷」 むかゆう(いう)のきょう(きやう)>むかゆう(いう)のさと。 煩わしいことの何もない所。無為の仙境。ユートピア。 {荘・逍遙遊}「遊、____」。 {万葉集・16}「心して_____に置きてあらば」。

2007-03-13

「時期」と「ス」

 「宮澤賢治の詩の世界」の浜垣先生から、コメントを戴いた。

 賢治の作品「林学生」の書いた時期と、ジェームスの「ス」の濁らないご説明があり、小生の考えが間違っていることが解りました。賢治は「種々」のほうを読まれた可能性が高いということを、ご教示いただきましたことについてお礼を申しあげます。

 これからも間違いだらけの事を書くと思います。何方さまもお教えくださいますよう、お願い致します。

2007-03-05

カンパネルラとモリス

 賢治のユートピアについて、森のミュージアム http://homepage2.nifty.com/sakunami

に大内さんが大変貴重な研究を発表されている。今後も研究がすすむようで、ご論考が記されるのが楽しみである。羅須地人協会についてのことは、後に触れたい。

 さて、氏のウイリアム・モリスのユートピアと賢治とについて、吉本論にふれておられるのでご覧願うとして、ここでは小野隆祥著「宮澤賢治の思索と信仰」の賢治のユートピアに目を向けたい。小野は「ユートピア意識を刺激しえた人物として修道士であり、反乱指導者でもあったカンパネルラを考える。」と指摘している(363頁)。作品論に沿った考えでの論である。上田哲や佐藤勝治の考えもあるのを、大内氏はどのように考えらるかを期待している。(マロリ・フロムの「宮澤賢治の理想」は他に記す)

2007-02-28

肥料学汎論

 盛岡高等農林学校教授農学博士 小野寺伊勢之助著 『肥料学汎論』 発行所 養賢堂 (昭和五年十一月五日発行)がある。各論は昭和七年の七月と十一月に出版されている。

 賢治は肥料としての石灰について、博士に人づてであったり自分でも直接に尋ねている。賢治最晩年の仕事として。  これについては後に触れよう。

 (タイトルに前回春近しと記した。迷惑なるトラックバック有ったので、こんな記事を書いた。)

2007-01-15

ほんとのおれの仕事

 「二集」の「序」には<水稲肥料の設計事務所>の計画を考えたり、そして「本当の百姓」になるための「農民芸術概論綱要」構想で、新しい農民文化の形成の志を立てて、桜に「羅須地人協会」の活動を始めるのである。

 石鳥谷で「稲作肥料の設計事務所」を開設し、湯本や飯豊等では「農業技術の指導」をもおこなう。それから文化活動として、戦後に大学生がセツルメント活動を行なったような「子ども会」的な事を「独居自炊」の「別宅」ではじめたのである。

 「本当の百姓」といっても、「カラ」と呼ばれていた北上河原の砂地で、小灌木や一部に熊笹とばらの小藪のところを開墾をしているのである。祖母に聞いた事があるが、「あそこは半分以上草パラで、月見草などが良く生えていた」と話していたが、定かではない。土手と一部が牧草を刈る場所でも有ったようだ。教え子の菊地信一に、開墾当時のことを語っているが、最初の頃は「やつと二坪ばかり、その次の日も二坪ちょっと・・」「今では十坪位は楽ですよ、」と話している。田は耕作に至らなかったのである。

 「詩ノート」 1016 [ 黒つちからたつ ]  1927、3 、26 、 

  きみたちがみんな労農党になってから

  それからほんとうのおれの仕事がはじまるのだ   (前後略)

 賢治は「羅須地人協会」を創めてから一年で、「仕事」との観念の明別の意識は、実践よりも極めて直感的な把握の仕方で先行的認識が行なわれていったものとみえる。仏教でいうレンマ、文字通り「把握」「先をとらえ」ていく複眼的思想である。胸中に秘めた意思表明が、俗に言うとどんどん沸いてくるのである。

 次回から、「春と修羅 第三集」について、フィクションもみられるが、もう少し「場所」のことや「どこからの眺めか」を、事実に沿って読んでみたい。

 

 

2007-01-13

第三芸術

 「本当の百姓」 百姓だけではなく、働くという事はそれが工場労働であれ、農業の仕事であれ、労働そのものが創造性を有し、快適な環境でなされるときは、灰色であり無意味であることがなくなる。「春と修羅 第三集 詩稿補遺」に、農民芸術の真髄ともとれる詩がある。

   第三芸術

 蕪のうねりをこさえていたら

 白髪あたまの小さな人が

 いつかうしろに立っていた

 それから何を蒔くかときいた

 赤蕪をまくつもりだと答えた

 赤蕪のうね かう立てるなと

 その人はしづかに手を出して 

 こっちの鍬をとりかへし

 畦を一とこ斜めに掻いた

 おれは頭がしいんと鳴って

 魔薬をかけてしまはれたやう

 ぼんやりとしてつっ立った

 日が照り風も吹いていて

 二人の影は砂に落ち

 川も向ふで光っていたが

 わたしはまるで恍惚として

 どんな水墨の筆触

 どういふ彫刻家の鑿のかほりが

 これに対して勝るであらうと考えた

 突然現れて、みごとな農作業を示された白髪の小柄な老人。見事な手さばきに「わたしはまるで恍惚として / どんな水墨の筆触 / どういふ彫刻家の鑿のかほりが / これに対して勝るであらうと考えた」とある。この詩は賢治研究者に諸所の「第三芸術」論として取り上げられているので、此処では省略するが、労働と芸術が理想のかたちを為すものとしての意識がはたらいている。「本当の百姓」の認識のあらわれである。

2007-01-12

本当の百姓

 賢治は農学校の職をやめて、桜の別荘で一人っきりの自炊生活を始めるとともに、「本当の百姓」になるため、自ら畑を耕し始めたとある。「本当の百姓」とは普通に考えてどのようなことだろう。

 百姓とは農業で生活をしている人、農業をいとなむ人、農民のことぐらいは誰でもご存知である。賢治の考える「本当の百姓」とはどんな百姓か。それは言わずとも知れた「農民芸術概論綱要」一連の内容の事である訳だ。

 「本当の百姓」になるために、冒頭で記したように桜で「自給自足経済を試みる」と研究者に記されている。「稲作挿話(未定稿)」では「陸羽百三十二号」などや、石鳥谷での「肥料相談」等をも行なう。だがすでに「春と修羅」第二集の「序」に「水稲肥料の設計事務所も出して」ともある。

 桜の人の中には、畑を耕して生活をする人を百姓であると思っているのが多かったと考えられる。なによりも「饗宴」がそれを物語っている。

 「下ノ畑」で作られた作物は、「物々交換」の気配は管見では見当たらない。毎日の生活に必要な「一日ニ玄米四合」はどこで入手したのだろう。「花」は良くくれてしまう。自分でも「半人前」とも考えている。つまり農作業は畑仕事よりも「米作り」が難儀であった。当時の農作業は現在とは違い、機械化が未発達の時代である。「部落」的共同体作業なくしては不可能であった。農作業実践の指導は桜での活動よりも、近在での活躍にならざるを得なかったのである。「三集」はそれを物語っていると思う。

 いま賢治とともに「本当の百姓」を、もう一度考えてみるべきであろう。 

2007-01-04

賢治の居場所

 一日の朝日新聞「天声人語」は、花巻をかたっている。ご覧になっていない方に、一読をお薦めしたい。

この短い文章に脱帽である。

2006-12-04

「下ノ畑」追記

 『 「春と修羅」第三集 』に、「1043 [ 市場帰り ] 」があります。

 賢治「三集の時代」に、花巻に「市場」が有ったかどうか。もう少し具体的に言うと、「野菜市場」が有ったかどうか。野菜や花の市場は無かったようです。

 「詩ノート」は [ 水仙をかつぎ ] でした。「村農ヤコブ」が、「白と黄」色の水仙」を背負い籠に入れて「売って来た」のでした。「ぼくもいまヒヤシンスを売ってきたのです」。

 「文語詩」では「村道」の題名です。

 野菜や花の市場ではなく、それを売買してくれる所は、上町の大きな角店「大正屋」でしょうと思われます。

2006-11-23

「蜜醸」

『春と修羅 詩稿補遺』に、「蜜醸」という詩がある。校本全集の校異に(580P)、『本篇を文語詩に改作したものが、第五巻所収「[林の中の芝小屋に]下書き(1)である。』とある。

 此処で説明をしたいのは、文語詩に改作されたのは「蜜醸」かどうかである。

「蜜醸」に出ている人物「こっそりひとり立っている」さん。此処の詩の場所も大体見当が付くが、今ならまだ桜の古老なら誰でも「利ッコさん」と言ったら知っているであろう。お断りをしておくが、当時は「蜜醸」は何処の家庭でも、何かの行事には必要欠くべからざるもので、特別の家だけではなかったのである。

 「蜜醸」の『(1)下書き(一)』は「林」で、『(2)下書き(二)』は「蜜醸」である。校異の説明が『なお、本稿表の下隅に鉛筆でやや大きく「文語」と記入されており、裏面左半、上よりには、鉛筆で、文語詩[林の中の芝小屋に]下書き(一)が記されている。』とある。まだ説明がなお続くのであるが、「文語詩[林の中の芝小屋に]」は、詩の内容からみて「蜜醸」とは無関係であろう。

 「かくし念仏」との関連で上記のことを確認して置きたいのである。

 注 「林の中の芝小屋に」下書き(1)と、「蜜醸」(1)下書き(一)は編集者が同じ系列にしている。下書き(一)は同じであるとしても、「林の中の芝小屋に」の「(2)下書き(二)」で、「法印の孫娘」の下書きがある方を採られたなら、「校異」での説明が分かり良かったと思はれる。くどい様だが、どちらも下書き(一)では同じ内容であるが、文語詩『林の中の芝小屋に』と、『蜜醸』は内容の違う作品である。

2006-08-13

字典Ⅱ

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 「宮澤賢治所蔵図書目録」に、詳解 漢和大字典は(蔵書番号 99)にありますが、左の写真の本は、蔵書番号(98)の本です。フクロウやミミズクなどの鳥の名まえや、植物等の名が、当時どのように呼ばれていたかが参考になり、利用者に便利な本かもしれません。

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 こちらの左の本は蔵書番号(32)の本です。植物に付いてでしたなら前の(98)番と一緒にご使用なされますと、賢治作品がより一層お楽しみに為れるかと思います。

            

2006-08-11

字典

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小野隆祥著 「宮澤賢治の思索と信仰」の142頁から143頁に、付記として「仏教大辞彙」について記されていますが、知人は初版の三巻本をお持ちです。上の写真の「大字典」は大正十二年三月十日発行のものです。(写真三図、左から三行目の、広告は参考になりますでしょうか)

わたくしの「仏教大辞彙」は、再販版で六冊本です。

 「仏教大辞彙」は、初版の第一巻は、大正三年五月十八日発行で、第二巻は大正五年十二月二十三日発行。第三巻は、大正十一年一月八日発行です。

 再販本は、第一巻は、昭和十年六月二十八日発行で、第六巻 昭和十一年九月二十八日発行です。

 賢治研究を為さられる方は、字典類は大事な参考資料でしょうから、当時のものを、ごらんに為されますことが望まれましょう。 わたくしは何か自分で解からないことがあったときは、辞典類が、解かりやすくてしかも簡潔ですきです。

2006-07-02

ヘッケル

エルンスト・ヘツケル著  石井友幸訳

自然創造史 発行所 (株)晴南社  昭和二十一年九月二十日発行Photo

 岩波文庫の「生命の不可思議」は貴方もご存知ですから採り上げません。 

 わたくしの手元に在るヘッケル資料は、「宇宙之謎」と上記の二種類以外は、「辞典」の幾つかだけです。

 「自然創造史」は、戦後間もなく出版された本で、金箔(?)で凄く見栄えの良い素敵な本と思いました。しかし、それは金箔では無くて、真鍮の粉末入りのもので、背糊も虫に遣られて無惨、それでも図版は何とか現在に通用します。暫らくあるお方(Kさん)にお貸ししていましたが、わたくしにとってダーウインの著書とこの本は、過ぎし日の思い出の本です。 S 様 では又  壺中から

2006-06-29

賢治作品の散歩フロク

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メーテルリンクとヘッケルの写真

 栗原古城訳の「死後は如何」緒言に「マーテルリンクは神秘の偉大を知りてその前に跪き、霊魂の懾きを聞漏さじとする人である。彼は此点に於てはエマーソンの徒弟でもあつて、而もエマーソンの世間的分子を除いて、もう一層神秘的色彩を濃くした人と云うべきであらう。彼の哲学的論文も殆んどエマーソンと同一程度に達し、而も未だ曾て彼の道破せざる神秘を語っている。エマーソンを哲学者にあらずして聖者と云うならば、マーテルリンクも矢張り此類の人である。彼はベルグソンと同じように、吾等の本姓や直覚に映じ来る本然の使命に従わんと欲するならば、理智一方に偏した外的の空騒ぎを止めて、静思と瞑想とに沈潜せねばならぬことを教えている。此點に於いて彼は昔からの東洋の聖者達と同様であって、今日の科学的物質主義を葬るべき欧州思想界の先駆を為すものである。」とあります。

 {この本と併せて高橋五郎氏訳 「心霊学講話」(デゼルチィス原著、玄黄社発行)を一読せられ度い。}と記されて、続いて目次と進み、 第一章 死に対する吾々の迷想 から 第十二章まであり、附録 交霊術とは何ぞや で終わっています。

 賢治作品のなかに、としさんを想い求めた世界を理解するのに不可欠と迄は申しませんが、これらの著書は一読に値するかもと思はれます。

 追記 栗原古城の古が小になつていました。かぐら川様からのご指摘があり、訂正をして

お礼を申しあげます。

 玄黄社版 譯者 栗原 元吉  (2007年8月7日記)

壺中の天地

 _005 賢治が読まれたであろう本か。

エマーソンは佐藤勝治さんが以前写真入りで説明されていましたからこれはOKです。玄黄社版と国民文庫刊行会の全集6巻本は、どちらも戸川明三(秋骨)訳です。

 メーテルリンクの「死後は如何」は如何でしょうか。この「死後は如何」については次回に触れます。

 ヘッケルは「生命の不可思議」よりもこちらの「宇宙之謎」のほうが、如何でしょう。141頁から337頁までが、次のような項目です。「第二篇 心理的研究   第六章 霊魂の本質  第七章 心理的階級  第八章 霊魂の発生  第九章 霊魂の系統  第十章 意識  第十一章 霊魂不滅 」。これはヘッケルですよ。 

 同じ発行所からでている、オリバーロッチの「死後の生存」。これは私としては大変なお薦め本です。大正六年五月発行のものです。心霊現象研究華やかさが感じられる当時の一冊でしょう。「十字通信の発見」や、「タネリ」を思わせる「ネリーとはタムソン夫人が使ったスピリット名」とあったりしてとても楽しいですよ。タムソンの「タ」を「ネリ」のあたまにのっけちゃう。こんなのってどうです。 心霊現象研究に熱?を入れ過ぎて帝国大学の教職を棒に振った方が居られたのも、さもありなんかです。今日の壺中からはこのへんで では又

2006-06-09

ヤジュルの悲しみ

 あるお方から次のような有難いご指摘を受けました。 貴方の「宮澤賢治の詩から」の一連を読みました。{「宮澤賢治の詩の世界」の中の、5月14日 「その南の三日月形の村(2)」の何処のところの事が、貴方と考えているところが違うのか}と。その他にも有りましたが、取り敢えずこの点について、わたくしの考えを述べます。少し長文ですが、次に引用いたします。

 1925年9月、翌春に農学校を退職するとすでに心に決めていた賢治は、ひそかに太田村を訪れて、そこにある廃屋の一つを自分の住居として借りられないか、村人と交渉してみたのではないしょうか。そしておそらく賢治は老人から冷たく断られ、結局は下根子にあった宮澤家別宅に移り住んで「羅須地人協会」を始めることになったのです。

 以上は最後の行から約三十行程前のところです。わたくしは前にも記しましたが、賢治詩を読まれる方は、詩ですからどのようにお読みになられても一向にかまわないと思うのですが、「おそらく」と言う推定で「賢治は老人から冷たく断られとの考えで、賢治と地域住民とを対立関係としての捕らえ方、見方をされることが如何なものかと考えるものです。其の事については、他でも記しましたのでここでは省きます。「立証」や「状況証拠」の言葉をお書きになされるお方ならば、少なくとも推定などでお書きになされますことはどんなものでしょう。「宮澤賢治の詩の世界」はたくさんの方がお読みになって居られます。「高村山荘」のような記され方をなされても困ると考えるものです。

2006-06-08

寺と鳥居

 賢治の詩「春と修羅 第四集」中の「みんな食事もすんだらしく」の詩のなかに、絵馬(和算の額)と鳥居が記されています。清水さんを象徴する記載です。下図の{「清水寺境内内外地図面」花巻市立図書館所蔵}は、「清水寺研究 第二号」に掲載されている「地図」です。このなかに、鳥居がみられます。_004_1

「古くからの幡や絵馬の間に/声あげて声あげて慟哭したい/杉の梢を雲がすべり/鳥居はひるの野原にひらく」。以上が「そのまっくらな巨きなものを」の後半の詩篇です。

 さて「羅須地人協会時代(大正十五~昭和三)の作とされ、農民との人間関係のなかで疎外され、傷つき、絶望へと傾斜して行く,賢治の暗く重い心情と自己励起をそこに読まれてきたもの。」と杉浦氏は観るのです。そして「そのまっくらな巨きなもの」「おれはどうにも動かせない」「結局おれではだめなのかなあ」とし、そして「同心町の夜あけがた」に見られるものが、「境内」に底流するものであったと言うのです。底流するということについては理解が出来ますが、時期や読まれているふたつの詩の場所及び情景を捨象してしまわれますと、その読み手の恣意性がはたらき過ぎませんでしょうか。「境内」なる作品は、桜の別荘で、賢治が独居自炊の始まる前の作品です。「境内」の作品の「暗さ」があって、桜での「暗さ」を説明されるという事は、桜での農民活動以前に、賢治自身がすでに「おれはどうにも動かせない」ものを抱いていた事になりましょう。それから次に大事だと思いますのは、羅須地人協会時代のどのような人々との間に「悪意・反感・疎外意識・嫉視」が有ったと言うのでしょうかと云う事です。詩作品は、お読みになる方はどのように読まれても、詩的言語で書かれているものですから読み手の自由でかまわないと、わたくしは思いますが、ただ、人との関係では、その関係は明らかでなければならないと思います。羅須地人協会時代のどんな人、詩の中に描かれているどの人、どの農民だったのかが問題でしょう。羅須地人協会時代は云って見ればそんなに長い期間ではなかった。だが「境内」の中の暗さの面のみを誇大視されるとするならば、そして協会の地近辺の農民とをも総て同一視されるような読みでしたならば、賢治自身の「農」としての活動と「協会」の存在意義が過少に読まれてしまわれませんでしょうか。実りの部分が見えてこないのではないかと考えるものです。かつて賢治研究者には、「春と修羅 第三集」のなかの作品が、具体的に何処の情景を読まれているかを、それ程に研究されずじまいの感があったように思います。最近東京では「賢治研究会」の読書会が、本格的に読まれていて、その成果が期待されます。賢治の詩から読む心情及び思想や世界観も大事でしょうが、わたくしは何よりも現在行はれている[宮澤賢治研究会]「http://kenji-society.com/」のような本格的な読書会での読みが、最も大事だと思います。

 羅須地人協会の詩碑近辺についてのお話は、今後に遺された課題です。次回に譲りたいと思います。

2006-06-05

羅須地人協会時代寸評

 「宮沢賢治の詩の世界」を拝見してから、わたくしは迷路に入り過ぎたようです。だいぶ「境内」から逸れて寄り道をしてしまいました。それは宮沢賢治が「そのまっくらな巨きなもの」と詠んだ「境内」が、当時どんな情景であったのか、背景を少しでも辿って視たかったからなのです。

 ここ迄で引用しまたした各諸先生方の諸論考は、皆さんでご覧になっていただくとして、そろそろわたくしの想いを述べなければならないところまできたと思います。賢治と農民との関係で、最も多くとりざたされて来た「そのまっくらな巨きなもの」の「境内」なる作品は、「同心町の夜明けがた」より先行発想がなされたものであった。「境内」は昭和二年四月二十一日「同心町の夜明けがた」の作られた日よりも前の作品であるということです。<入沢氏は「賢治の羅須地人協会時代(大正13-昭和3)の作とみられていて」とまいおきをしているが、制作年月日は不問のままです> 「境内」は昭和二年に大改築をしていますので、その後でしたなら、またその最中でしたなら、新しくなった境内としてなんらそれに触れらていないということは考えられません。、和算額等の記されている事がらから視ても、仁王門新築工事や五十年大祭に触れていないのです。ですから昭和二年以前の作品と考えざるをえません。「大正十五年八月十七日、岩手日報には{稗貫太田清水、観音縁日、大変な参詣人}という見出しで次のような記事が掲載されている。」と、この日の盛況ぶりが報じられたということです。 つづく

2006-06-01

花巻・清水寺との関連で

 宮沢賢治の「口語詩稿」に収められている「境内」は、作者が何時ごろ清水寺に行った時の事なのでしょうか。日付も有りませんし、確たる証拠も無いのですが、次の事は考えられるのではと思いますがどんなものでしょう。作者は一人で清水寺に行ったのですが、下書き稿に記されている「みんな食事もすんだらしく/また改めてごぼんごぼんとどらをたたいたり/樹にこだまさせて拍手をうったり/林のなかはにぎやかになった」とあります。それから作者自身も「おれも飯でも握ってもってくるとよかった」ともありますから、何かの行事のときに行かれたのでしょう。昭和のはじめころの太田の清水さんは、いろいろと行事があったが、その行事のときには大勢の参拝者でにぎやかであったと「清水寺研究」にみられます。{平成十三年三月十三日発行(古刹文書研究会)}の「清水寺研究」第三号に、「昭和二年十一月に当国三十三所観世音像を仁王門楼上に奉安」とありますが、「境内」の詩の内容からみて十一月では無理なのではないかと思われます。しかもその法要当日は雨だったそうです。それから翌年の昭和三年八月十五日(旧歴七月一日)から二十四日までの十日間、五十年大祭が行われていますが、この大祭はたいへんな賑わいであったとのことです。そこではお店なども出ていますから、「石パン」などは必要ありませんね。「山門の下や石碑に腰かけて/割合ひっそりとしているのは/いま盛んにたべているのだ/約束をしてみんな弁当をもち出して」とあり、次に「じぶんの家の近辺を/ふだんはあるかないやうなあちこちの田の隅まで/仲間といっしょにまはってあるく/ちょっと異様な気持ちだろう」。さてここで、山門工事に来ている人々でしたならと考えたなら、どうでしょうか。工事を行っている人たちは、ふだんは農業を行っている人たちだったからです。それから写真で見ますと「どら」は観音堂にあったのすから、工事中でも「どら」にかんしては問題はありませんね。観音堂の屋根葺き替え工事と平行して、山門である仁王門新築工事が行われているのですが、「観音堂の工期は昭和二年旧七月九日から八月六日の約一ヶ月間」とありますから、この期間でもよろしいのではと思いますがどうでしょうか。この人たちが「田の隅まで」仲間と回って見て歩くなど、考えられませんか。しかしやっぱり仁王門工事の人びとではなく、参拝者でよいのでしょう。翌年の大祭をまえにしてでも、清水さんの縁日でしたなら良いと考えてもみてどうでしょう。わたくしはそれしか思い当たりません。 つづく

2006-05-31

宮沢賢治の詩から

 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」のホームページからの「リンク」で、「宮沢賢治の詩の世界」を開き、五月十四日「その南の三日月形の村(2)」をご覧の方も少なくないと思います。わたくしは以前からこれらの「詩」に関心がありました。

 入沢康夫氏が、(「銅羅」三十号 1976年5月)に、「賢治の一詩篇をめぐって」と題して、その後「日本文学」に1989年9月号に、{(宮沢賢治)「みんな食事もすんだらしく」}を杉浦静氏がお書きになられ、また{「清水寺研究会」(清水寺研究)1999年}に宮川恵佐巨氏が「宮沢賢治と清水寺」なる論考をお出しになられています。

 この一連の詩にかんして、杉浦さんが日本文学にお書きになられたのは、入沢さんの「検証」がなされてから十年余の日時が経過してからでしたが、わたしが気になります事のひとつは、「そのまっくらな巨きなもの・」が、「清水寺」とに関連した詩「境内」の前半部である事は承知していますが、それと{春と修羅 第三集の「1042 同心町の夜あけがた」と底流するものがある}といわれることについてです。賢治に対しての<強い皮肉>や<嫉視><懼れ>などと様々な推測が出来ることだと言うことについてです。「同心町の夜あけがた」は後に触れるとして、「境内」の下書き稿他一連をみて、宮川氏の指摘もあるのですが、どことどのようなことが「境内」の清水寺との関連で底流するのかです。わたくしはまず問題てんは、「境内」なるこの作品は、何時ごろの作者の作品であるのか。詠みの発想としてです。

 はじめに 「境内」のなかの作品のことから考えてみたいと思います。{みんなが弁当をたべている間/わたくしはこの杉の幹にかくれて/しばらくひとり憩んでいやう }とあり、 このつづきに次のように記されています。 {二里も遠くから・・・・}とあります。{二里も遠くから・・・}とは何処から「境内」を観ているかです。{この野原中/くろくわだかまって見え/・・・・}である「境内」を、「二里も」はなれている所から見ているのですが、そこは、賢治が教鞭をとっていた農学校から観ている「境内」の周りの鬱蒼たる杉林のところのことでしょう。 {ひとり憩んで}いながら、「くろくわだかまって見え」ていたときのことを、回想をしている所でしょうか。さて、次に<そのまっくらな巨きなもの>と、「境内」の詩のどこの行の部分が、どのようなような繋がりのところとして読み取ったなら、「この時期の賢治の農民との関係の総体を背景に」読むことができるのでしょうかです。<そのまっくらな巨きなもの>との関連からです。 つづく

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