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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

宮澤賢治

2009-09-01

斎藤宗次郎と宮沢賢治の通った校舎

 南城尋常高等小学校の旧校舎は、かっては斎藤宗次郎や宮沢賢治が学んだ校舎である。宗次郎は1889年に新設されたばかりの稗貫高等小校学に通うために小瀬川新太郎方(養母・こんの実家)へ寄寓され、そこから通い始めた(二年後には母の甥方に移る)。また賢治も同じ学校に1903年四月に入学した。

 佐藤隆房著『宮沢賢治』には、「母校花城尋常高等小学校(大正末年撮影 故人の通つた校舎は焼失しその跡に再建したもの)」として、町役場の東南鐘つき堂のある校舎の写真を掲載しているが、宗次郎と賢治が学んだ校舎は南城に払い下げ移築されていたので、この『宮沢賢治』の記載は一部間違いである。賢治の二年生12月に移った新校舎は焼失したが、入学当時の校舎は残っている。{詳細は「賢治の小学校時代」参照}

 南城に移築された校舎の二階の「奉置所」室は職員室として使用された。「第三学級」の教室は学校中で一番騒々しい学級が入れられた。教室と職員室の堺は板壁で少しの騒ぎでも職員室に筒抜けであった。騒々しいと他の先生が飛んで来た。必ず担任の先生から「罰」が下された。この「三学級」の教室に小生のクラスも入れられた。校舎の左奥「小使室」の外側には釣瓶井戸があり、作業の後などにはこの井戸を使用した。思い出の校舎である。

2007-12-16

加藤謙次郎「証言」

 水野達朗氏の 「賢治の『勉強』 -外国文学・思想受容の契機」 と題して研究発表が、宮澤賢治研究会の例会で有りました。

 配布が有りました資料に、

 ①(明治四十四年度の二学期(又は三学期)に寄宿舎で同室した藤原文三の証言)として

 とにかく変わっていて汚れ物はかまわず押入れにつっこみ、教科書は見ず、「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたのに驚いた。<前後略>(新校本宮澤賢治全集 第十六巻{下}七二頁)

 ここで小生が、押入れについて一部誤った発言をしました。お詫びをして、次の資料をご提出します。記憶違いもあるやもと、お話しましたが、誤解が生じかねませんので、訂正をします。お話しました内容資料の出所は、以下の「証言」記事からのものでした。ご参照下さいますようお願い致します。

また、『あゝ青春 盛岡第一高等学校 白亜外史として』(毎日新聞社 盛岡支局)とお話しましたが、それでわなく、発行所は読売新聞社 盛岡支局でした。(最後の文章は 「治のすべてなんです」が追加してお読み下さい)Img_0002 Img Img_0001     <画像上、右クリックで「リンクを開く」から、移動でご覧下さい>    

2007-12-09

{ 濃い雲が二きれ }

 今年も残りわずかになって来ました。なんとなく気になる「課題」がいくつかあり、何とかしなければと考えだけがよぎる。

 「735 饗宴」と「738 はるかな作業」の二つの作品の間の「736 { 濃い雲が二きれ } 」と言う作品もその一つである。「饗宴」と「煙」については、以前少し検討した。

 4月10日と4月12日に、ここのブログで、煉瓦工場と瓦工場の違いにふれた。小澤俊郎著「薄明穹をいく」におさめられている「煉瓦工場」のなかのことにふれたのであった。

 小澤氏は、「はるかなる作業」の作品と「煙」の作品は「一ヶ月後、同じ場所で似た題材を描いている」(88頁)としているが、賢治が「同じ場所で二つの作品を詠んだ」事なのか、それとも「二つの作品が同じ場所の事を描いたものなのか」についての、その曖昧さ加減を指摘したつもりであったのである。読み返してみると小生もいい加減なところだらけであった。

 前の二つの作品の間にある{ 濃い雲が二きれ } については触れずじまいであったので、このなかの四行目の「雷沢帰妹」に触れておこう。

 雷沢帰妹は易では次のように説明されている。

  帰妹は征けば凶。利しき攸无し。

  彖曰。帰妹は天地の大儀也。天地交はらざれば万物興らず。帰妹は人の終始也。征けば凶とは位當らざる也。利しき攸无きは剛柔に乗れば也。

  象曰。澤上に雷有るは帰妹。君子以て終を永くし敝を知る。

 {帰妹(きまい)はゆけば凶で、よろしきところがない。

 たんにいはくは、「彖傳からの卦形の配列」をいうのであろう。}

 他に「三だとさ」は、爻の名の三爻の事か。詳細は専門家にご教示をお願いしたい。

 蛇紋岩の青い鋸風に視えるシャーマン山は、九月の初めなのに日が射してはいるが、向こうはもう寒いのだと言う。早池峰山でもよいのだが、桜からでの見える山であるなら、朝ならば西の和賀仙人の鋸風の切り立ったあの山ではなかろうか。懐かしい山である。岩手山とほぼ同じ時期に、初冠雪が見える山でもある。此方の山から雲が出だすとあっという間に花巻から南側の平地の天候は、怪しくなるのである。

2007-10-12

広瀬正明氏の論考を読んで

 宮澤賢治学会イーハトーブセンターから今年もAnnual が届いた。

昨年に続いて広瀬正明氏の興味ある論考が載っている。

 此処に書くのは、専門知識の無い素人のわたくしの読みだから、間違いだらけばかりだと思うのであるが、非才を省みずに感想を述べ恥をかく。

 最初に、昨年の論考「紫雲英と石灰による有機農法」-ある化学計算ノートにみる賢治の構想ーに少し触れたい。「三集」の「饗宴」に、(紫雲英<ハナコ>)が出ているからだ。わたくしのレンゲソウの肥料の知識は、吉村清尚著 最新 肥料学講義 弘道館発行である。初版は大正十年七月十日で、訂正増補七版 昭和二年六月十五日発行のものをみている。第七章 植物質肥料のところからが、主なるものである。このなかの「紫雲英」と関連があると思われるところは、緑肥の効果等や、組成、それに成分表などが見られたりする所(251頁)、また「小野寺氏の研究によれば、紫雲英を水田に多量に施し稲作に有害作用を呈する場合の主なる原因は、その分解の際にメタン・炭酸瓦斯等多量に発生し、水稲根に有害作用を及ぼすと同時に土壌中に酸素の欠乏を来たさしめし水稲の栄養を妨ぐるに基づくものの如し。」(244頁)等である。 此処に出てくる「小野寺」は2月28日に記した「肥料学汎論」の著者である。広瀬氏も他の資料で注目して論じている。またこんな記事も視られる 「一反歩の紫雲英が開花迄に空気中より摂取同化する窒素の量は、二貫二百六十匁にして、人糞尿の十八荷、若くは魚肥の二十八貫に相当すべしといふ。」(255頁)。 その他この本には販売肥料の価格表や肥料試験(第十六章)があり、附録には肥料分析表が出ている。この本は当時の教科書として使用されていたのかも知れないと思える。明治時代の「肥料学」は、博文館「帝國百科全書」に視られるように肥料各論第一章人糞と云うような感じであった。昭和の初めになると、小野寺の「肥料学汎論」に見られるような新しい感覚の内容と形式の書になる感じである。 次に

 今年の論考は『「青森挽歌」における賢治の生命観」-化学の視点でたどる物質と精神の位置づけ』である。此処でも広瀬氏の参考資料と小生の視ている本の違いを述べておきたい。氏は『「意識ある蛋白質」の科学」を述べ、、「化学本論」やその他の著書を挙げている。

 「物質と精神」については他に記すとして、「賢治の生命観」について、主にヘッケルを採り上げられている。結論から言うと私は広瀬氏のこの論と関連ある著書は、大日本文明協会の「生命の不可思議」に付いては疑問を持っている。この本ではなく、「生命の不可思議」の同じ訳者の後藤格次が、同じ大日本文明協会から出版された「オストウァルト 価値の哲学」であると視ている。オストワルトに付いては「化学本論」の序文にも二度ほど名前が出ているだけではなく、本文の第八編 第二十八章に詳細に記されているのが視られる。また、堀尾青史著 「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)98頁に、仙台で「無機化学原理」を買った事例も出ているからである。「価値の哲学」の第二篇 応用の 第十二章 心理学上の方向現象竝に意志 118記憶の物理化学的起原で、蛋白質の化学的性質等を記している(329頁)。直接今回の論とは関連はないが、トロピズム作用説があり、毛細ガラス管の林檎酸運動が説明されたりしている処等が面白い(312頁)。ヘッケルの一元論でなく、オストワルドの実證論的認識の立場が、賢治の生命観に適しているのでわないかと思える。有機酸の研究ではアレーニュウスの説を実験的に強固にしたり、フアント・ホッフ等と共に新学説を称えている。広瀬氏の論の補強の意味でオストワルドを採り上げてもらいたいと感じた次第である。

2007-10-09

『「牧歌」の背後』

 栗原敦氏の『「牧歌」の背後』を読んだ。

もうだいぶまえのことだが、嶋二郎さんと飲んだときである。

「栗原さんは我々よりも、賢治作品に出てくる地名や場所に関してはよくご存知ですね。とてもあそこまで全般的には分からんよ。」と云うことで一致した。『「牧歌」の背後』もそれに違わぬ内容である。

 氏の『「牧歌」の背後』は、「牧歌」を読んで、当時の時代状況を知るうえでは参考になるが、「牧歌」が「名子制度」を「背後」としているとするのはどうだろうか。

 「太田」に付いては解るが、「辻堂」はどこだったか。そして田植えの場所は何処であつたのか。次に、忠一さん(甲助)や喜助さん(キスケさん)の参加している田植えであるならば、栗原氏の「牧歌」解釈の「背後」としての「名子制度」は、氏は疑問を持ちながらではあったが、はたして現実的であったかどうかである。

 氏が云う「名子制度」の残存であるなら、「饗宴」での状況はどう読んだならよいのだろう。仮定として宮澤家であったならば、小作人はあのような態度はありえないであろう。菊地正「伊藤与蔵聞き書き」に、飲み代の寄付が書かれているが、そこに書かれている地主は、島和衛門と宮澤家だけである。他に地主は出てこない。この両家は田畑は貸していたが、「太田」からまでの加勢が必要とする程の自耕地は、この近所には無かったはずだ。宮澤家では「名子制度」的耕作はなかったと思う。島和衛門の子供で次男の嫁は、わたしの祖母の姪であった。兵舎の入り口右側の屋敷近辺の畑を、祖母が良く手伝い仕事として耕していたが、其の程度の自耕地はあったが自耕田はなかった。「太田」地区にも土地を所有する地主で、忠一さんまでもが参加させられる地主であるなら、誰であったのか。

 「牧歌」で詠われている場所は、外台であることはまちがいない。外台の崖下側は地下水の染み出る「鉄ゲルの湧く」所でもあったし、「みんなで崖を下りて行き」とあるからだ。そして参加者が特定できる。とすると場所は賢治の住んでいた崖下から、せいぜい南城小学校下近辺迄であろう。その崖沿いの田であることが特定できる。「結い」に付いてなら考えられなくもないが、わたくしは次のように考える。

 また私事で恐縮だが次のような事実を述べたい。母は近所の嫁三・四人で似内に田植えや稲刈り時に、「手間取」に二・三日行った。「ほまつしごと」と言って、この時に得た収入は、農家の若い嫁の、唯いち自由に使えるお金でも有ったのである。其の地区によって、このような事が長く慣例化されていた。桜の部落でも、「ほまつしごと」での集団(大げさに言うと)が幾組みもあった。森口多里著「町の民俗」に、「南部の手間取」に、「出稼ぎ男」を面白おかしく書かれているが、ここでは、若い嫁にあえて農繁期に、「ほまつしごと」を与え、最っとも重労働で辛い時期を乗り越えていくというある制度の、知恵であったのかも知れない。毎年おなじ地域で仕事をするという事は、それなりの配慮と気遣いが、長続きの必要条件とも言えるのである。「牧歌」は、ある農家の田植えの情景で、地元の人々と、「太田」からの「ほまつしごと」の「手早い娘」達とを詠われた、このようには読めないものだろうか。「牧歌」の「背後」(背景)は、「名子制度」では有り得ない。また「昔からの庇護に対する報恩としての労働提供」でも無いのである。この地区(桜や外台)は、農地改革以前でも、「オラホの村は宮善の村です」とはい得ない。

2007-09-13

労農詩論三講

 桜の詩碑の隣に住んでいた伊藤忠一さんが書き残した、「労農詩論三講」 があるります。

 「イーハトーヴオ」 第四号(昭和15年2月21日発行)には、「芸術の定義」のところに次のように書かれている。

  トルストイの芸術定義

 芸術とは情緒を他人に感染せしむる手段である。

  ブハーリンの芸術定義

 感情社会化の手段である。

  ウイリアム・モリスの定義

 労働に於ける愉悦の表現である。

    快 = 苦痛ヲモ享楽ス + 同情

 創造には個性を有す、そして理想を有す。

 即ち一つの夢であって、無限性を有す。

 理想は個性を通し言葉音楽となりて表現さるゝものである。

 リズムの有る語・・詩である  

                        後方

      理想   ----  感情                                         

 詩とは・・胸一杯に溢れて一定のリズムを以って溢れ出ずるもの。 

(配置 線構造図は概念図です。記 ブログ作者)

 忠一さんのこの「労農詩論三講」は、次のような書き出しで始まっています。

「この稿は昭和元年二月羅須地人協会の集会の日、宮澤先生が「地人芸術論」として口述されたものを聴いたまま筆にとまつたままの記録であります。先生は、要項だけをボールドに書き、まだ草案に過ぎないから、筆記してはいけないと申され、当時の私には、この講義はむづかしすぎて途中でいねむりしたりしていたのですから、よろしく御判読願ふ次第であります。」<以下略>

 

 「農民芸術概論」等に関連しての見逃しの出来ない参考資料の一つでは無いかと思われる。

2007-09-09

室伏のモリス観その他

 「農民芸術概論」と「土に還る」との関連については、上田哲氏の論考に詳しく、これ以上につけくわえることは無いのですが、室伏の次のような文があったので参考までに記す。

 「第四章 機械の論理」 「[一] 近代文明は機械の結果である。」と書き出し、結びは「ロオド・バイロンは晦々たる短見者流である。ラスキンは田舎者、モリスは天保銭、トルストイは正にイワンの馬鹿である !」(前回の写真8枚目)。

 「倫敦が幾つかの田舎町に分裂し、商業中心地が貧民住宅地となり、牧場ができ、田園が起こり、ウエストミンスタアが肥料市場と化した。---モリスの記しているところは、われわれの世に、永久きたることなきユトピアであろうか。」(106頁)

 モリスの名前は外にも見られるが、次にアダム・スミスについての室伏の採りあげているところを紹介しよう。

 「資本主義の時代においては、農場は最も不利益な企業である。アダム・スミスの時においてさへ、彼がその民冨論で述べているところによれば、農業は既に欧羅巴における最も不利益なる企業であった。今日は益々その度を高めてきた。農村飢えて死なんとするは、たヾ小作農だけであるのではない。自作農と雖も、地主と雖も、苟くも農業企業にかかわるかぎりにおいて、今日は最も多くの不利益を分配されているのである。農業それ自身が貧困なのだ。都会のそれに比べて、農村それ自体が窮乏なのだ。」(262頁)

 ところで次に、多田幸正氏が「宮澤賢治とウイリアム・モリス ー<芸術>と<労働>の関連についてー」の論考が有る。以下少々長いが引用するのでお付き合いをお願いしたい。

 「モリスの芸術観=労働観について説明しようとするとき、もっとも簡にして要を得た便利な言葉が、」「芸術とは、人間の労働における喜びの表現である」。「これは先の室伏の『文明の没落』にもひかれているものだ。たったこれだけの短い言葉だが、ここには確かにモリスの芸術観ー労働と芸術についての考えが集中的に表現されている。」「この労働の喜びの論理は、モリスが芸術を考える際の中心的な問題というべく、彼の著述や講演の中で繰返し論じられている。例えば、『民衆の芸術』では、『私の理解する真の芸術とは、人間が労働に対する喜びを表現することである。その幸福を表現しなくては、人間は労働において幸福であることはできない』とし、さらに『この真の芸術とは、それを制作する人にも、それを使用する人にも、幸福なものとして、民衆により、民衆のために作られた芸術である』とのべている。モリスにとって斯かる芸術こそが、『存在しうる唯一の真の芸術』であり、『世界の進歩の障害ではなく、手段となる唯一の芸術』であった」(日本文学 1981・10 67頁より)

 「モリスもまた、土地を耕すことがあらゆる仕事の中で『最も必要で最も愉快な仕事』(「有用の仕事と無用の労苦」)だといい、農作業をして、人間が『みずから進んで精力を用いることを楽しいと考え』(「芸術の目的」)る理想的な仕事であることを強調している。いや、『ユートピアだより』に描かれている乾草刈りの場面を一読しただけでも、モリスがいかに農作業のような野外の仕事を重視しようとしていたかがわかろうというものだ。そこでは(もちろん、ユートピアの世界においてだが)、人々は陽気に語り合いながら、『ゆっくりと、しかも上手にたゆみなく働いてい』る。その仕事が『楽しい習性』とさえなっている。彼等は、この乾草刈りの仕事をも含めて、あらゆる労働の中に『自覚された感覚的な喜び』を見出しているのであり、言うなれば『芸術家としての仕事をしている』のである。」(同70頁より)

   多田氏はモリスの引用文献として、

 本間久雄訳「吾等如何に生くべきか」(東京堂書店 大正14)

 大槻憲二訳「芸術のための希望と不安」(聚芳閣 大正14) 

  [ 「民衆の芸術」と「ユートピアだより」は、岩波文庫を参考にされたのか。]

 モリスの「無何有郷だより」と,室伏の「土に還る」はこのへんでわたしの作文はお終いにして、この後はこれについての興味のあるかたの皆さんにお願いといたします。

2007-09-08

宮澤賢治の室伏論メモ1

  室伏高信

土 に 還 る  

  「汝は面に汗して食物を喰ひ終に土に帰らん。汝はその中より取られたればなり。」

         一

 都会万能の夢は破れた。都会万能主義の行詰まりは最早やあまりに明らかになつてきた。十九世紀が農民没落の時代であつたのに対し、二十世紀は都会没落の時代であるべく、凡ての徴候が既に熟した。

 人々の眼は期せずして農村に向かつてきた。政治運動も社会運動も若しくは芸術上の傾向さえも、今や漸く都会から農村へと彼等の視線を移したきた。  (本文243頁から)

 宮澤賢治

(イ)「農民芸術概論」と(ロ)「農民芸術概論綱要」と(ハ)「農民芸術の興隆」という三つの稿がありますが、(ロ)「農民芸術概論綱要」の中の「序論」の次にある「農民芸術の興隆」と、(ハ)「農民芸術の興隆」の最後の行に、

 都人よ来ってわれらに交れ 世界よ他意なきわれらを容れよ 

とある。 

 上田哲著 「宮澤賢治 その理想世界への道程」に、「宮澤賢治と室伏高信」-「農民芸術の興隆」における賢治の文明批評ーがある。

 上記の [] に、「文明の没落」や「土に帰る」の『本には直接的に「農民芸術概論綱要」や「農民芸術の興隆」と符合するような文や語句は見つからなかった』としながらも、『室伏高信の宮澤賢治への影響は否定できない』としている(264頁)。またさらに「羅須地人協会での農耕生活の実践により影響を与えているようにも思える」とも結んでおられる。

賢治はこの「農民芸術概論」で、農民としての直接呼びかけている語句は一箇所、次のように呼びかけているところが有るだけだ。

  農民よ奮い立てそしてわれらの---の表現を持て

農民芸術を説くのであるからわざわざ農民と記さづとも われら で良いのであるが、これは賢治は農民であるとしての自覚からとして捕らえてよいのであろう。賢治が農民かどうかは別としてもである。

 [] には「文明の没落」の解説と、更に緒論との関連の解説をされた後、「土に帰る」にも触れている。些細な事であるので恐縮だが、ニ三気が付いた事を記しておく。

 私の所に有る大正拾五年五月二十日版(昨日の写真参照)は 定価 金一円六十銭になっている。この本は増補版であるのか。解説によると定価が一円とあるが。また発行部数に付いても分かりにくい。一万一千部掛ける三十版の数は少々多すぎるかもと思われる。

 次に本文の三百七十四頁に記されている所に、おそらくミスプリだと思われるが、267ページの鍵がは「霊が、」で、272ページは「281ページ」の間違いであろう。(わたくしの本が違うのかもしれないが)

 上田氏の論は羅須地人協会に付いての解説が良くなされている。「語句の一致点はなかなか難しいと思える」事に付いては、わたくしだけではなさそうで安心させられた。

2007-09-07

「土に還る」

 モリスの「無何有郷だより」を前回採りあげたのですが、誤解を招きかねない記しかたがありました。それに付いての補足は何れかのきかいに譲るとして、今回は室伏高信にふれてみたいと思います。

 「『農民芸術概論』三篇、とりわけ『農民芸術の興隆』には、室伏の影響がある」とされ、西十二丁目の伊藤清一さんの「筆記帳には、室伏高信の名がはっきり記されており、賢治の講義中に、その名を挙げて説明を加えたことを示している。」と言うことです。(新修  宮澤賢治全集 第十五巻 解説 入沢康夫)

 此処では、室伏高信著「土に還る 文明の没落第二巻」の写真の一部を紹介いたします。

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 次回写真についての若干の説明をしたいと思います。

2007-08-14

『「無何有郷」(むかうのさと)だより』

W・モリスの「無何有郷(むかうのさと)だより」布施訳は、管見では直接賢治との関連で採り上げられている論考は無い。

ただ 「賢治とモリスの館」の「堺利彦『理想郷』の検索」で、堺の抄訳「理想郷」(平民文庫)の解説の終わりに、「大正14年(1925)に布施延雄の訳もある。これは『無何有郷だより』と題されている。」と触れられているだけである。

「新 宮澤賢治語彙辞典」のWim.Morris の項には、

<前後略>欧米の芸術運動にも大きな影響を与えた。叙事詩「地上楽園」(1869~1870)や、彼の思想を盛り込んだ小説『ユートピア便り』(1890)等が主著。賢治が英語でそれらを読んだか、訳が出ていたのか未詳だが、大正期の評論に紹介や言及はされていたから、賢治のイーハトーブ思想や農民芸術観への影響関係はこれからの課題。     とある。

「無何有 之郷」 むかゆう(いう)のきょう(きやう)>むかゆう(いう)のさと。 煩わしいことの何もない所。無為の仙境。ユートピア。 {荘・逍遙遊}「遊、____」。 {万葉集・16}「心して_____に置きてあらば」。

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