吉凶悔吝
吉凶悔吝は、人の心と行動の循環を表していると云われている。
「741 煙」の作品 校異下書稿余白に、(メモ)
八幡社の杉
吉凶悔吝
と記されているとある。
「三集」を読み解くうちに、作者賢治のこの当時の深層心境の一端が、覗き見え隠れしている観があるのではないかと考えていた。
「八幡社の杉」とは、作品内に「煉瓦工場の煙突」とあるから、小舟渡の八幡宮の杉の事である。
この二つの語句の余白メモであるが、何時ごろ書かれたのかは、良く解らない。作品番号「741」は、「煙」と「白菜畑」のニ作品に付されている。このことから考えて、期間の幅はある程度の限定が出来得るとしても、「煙」との関連は否定できない時期であろう。
「吉凶悔吝」も「雷沢帰妹」も、詳細な解説が「新 宮澤賢治語彙辞典」にあった。調べてみたら「新修 宮澤賢治全集」の「語注」にもある。ここでは語彙辞典の解説での、『咨』を採り上げて一考を試みる。
「校本全集」の編集者は、「咨」はママとしてある所を、「語彙辞典」では次のように記している。
「心ノ趣ク所ニ咨ナレバ」(咨は旧・新校本全集では読めないで(ママ)印にしているが 謀、諮に同じで問いはかること、思いのままに行動すること)といった由緒正しい漢字の素養も、なかなかのものに思われる。
前後は省略するが、語彙辞典の核心的解説の部分であると考えられるので、はたしてこの解釈でよいのかどうか。
易の解説書等によると、「吉凶悔吝」に続いて「咎无し」(とがなし)の項がある。少し長いが引用する。
易の中に咎无しと云う句が多々あります。説文には人に従ひ、各々に従ふ。各人相違ふなりとある。而して災なりとしてあります。元来の意義は人と人とが喧嘩する意味でありましょうか。易には其處々で解釈すべきであろうが、書経に天の咎めを降すと云ふが如き意味にとりて災の意にも、又人と人と相争ふが如く心的の争い、煩悶と解するも可なりと思ふ。終日乾々夕に惕若たれば厲けれども咎无しと云ふが如き場合には又過ちと解すべきであらう。過ちあれば煩悶し災い蒙むるから先ず何れにても大同小異でありませう。又咎めは病気と云ふ意味もある。漢字は全く代数的の文字であって、Xの値が幾つもある様でありますから其時々に従って解釈されん事を乞ひます。 (細貝正邦著 易の原理と其応用 大正六年十一月二十五日 三版 126頁)より
尚 「咎」 キウ と 「咨(諮)」 シ に付いては、賢治蔵書中にもある「詳解漢和大辞典」の参照もなされていただきたいと思います。
『易経』とのとの関連であるならは、咨(諮)ではなく、咎の使用が正しいと思われる。
校本全集の編集者は(ママ)と記した事は賢明であと思う者でありますが、この解釈についての解明には、識者諸氏のご教示を賜りたい。(未完)









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