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賢治参考図書

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    21年は一市は花巻村です。

宗教

2007-12-10

吉凶悔吝

 吉凶悔吝は、人の心と行動の循環を表していると云われている。

 「741 煙」の作品 校異下書稿余白に、(メモ)

    八幡社の杉

    吉凶悔吝 

 と記されているとある。

 「三集」を読み解くうちに、作者賢治のこの当時の深層心境の一端が、覗き見え隠れしている観があるのではないかと考えていた。

 「八幡社の杉」とは、作品内に「煉瓦工場の煙突」とあるから、小舟渡の八幡宮の杉の事である。

 この二つの語句の余白メモであるが、何時ごろ書かれたのかは、良く解らない。作品番号「741」は、「煙」と「白菜畑」のニ作品に付されている。このことから考えて、期間の幅はある程度の限定が出来得るとしても、「煙」との関連は否定できない時期であろう。

 「吉凶悔吝」も「雷沢帰妹」も、詳細な解説が「新 宮澤賢治語彙辞典」にあった。調べてみたら「新修 宮澤賢治全集」の「語注」にもある。ここでは語彙辞典の解説での、『咨』を採り上げて一考を試みる。 

 「校本全集」の編集者は、「咨」はママとしてある所を、「語彙辞典」では次のように記している。

   「心ノ趣ク所ニ咨ナレバ」(咨は旧・新校本全集では読めないで(ママ)印にしているが  謀、諮に同じで問いはかること、思いのままに行動すること)といった由緒正しい漢字の素養も、なかなかのものに思われる。

 前後は省略するが、語彙辞典の核心的解説の部分であると考えられるので、はたしてこの解釈でよいのかどうか。

 易の解説書等によると、「吉凶悔吝」に続いて「咎无し」(とがなし)の項がある。少し長いが引用する。

 易の中に咎无しと云う句が多々あります。説文には人に従ひ、各々に従ふ。各人相違ふなりとある。而して災なりとしてあります。元来の意義は人と人とが喧嘩する意味でありましょうか。易には其處々で解釈すべきであろうが、書経に天の咎めを降すと云ふが如き意味にとりて災の意にも、又人と人と相争ふが如く心的の争い、煩悶と解するも可なりと思ふ。終日乾々夕に惕若たれば厲けれども咎无しと云ふが如き場合には又過ちと解すべきであらう。過ちあれば煩悶し災い蒙むるから先ず何れにても大同小異でありませう。又咎めは病気と云ふ意味もある。漢字は全く代数的の文字であって、Xの値が幾つもある様でありますから其時々に従って解釈されん事を乞ひます。 (細貝正邦著 易の原理と其応用 大正六年十一月二十五日 三版 126頁)より

 尚 「咎」 キウ と 「咨(諮)」 シ に付いては、賢治蔵書中にもある「詳解漢和大辞典」の参照もなされていただきたいと思います。

 『易経』とのとの関連であるならは、咨(諮)ではなく、咎の使用が正しいと思われる。

 校本全集の編集者は(ママ)と記した事は賢明であと思う者でありますが、この解釈についての解明には、識者諸氏のご教示を賜りたい。(未完)

2006-11-24

凍った桑の畑の中でおきた事

_002_3 「心に引掛つた作品なので、今回はそれを取り上げさせていたゞく。」とある小沢氏の『詩篇「夜」鑑賞』の(語註)解説は、適切なもので、語註解説に、熊さんや権兵衛の名が出たところで私はドキッとした。この事実を知っているかと思えたからである。

 だがしかし小沢氏は、「東北の やりきれない貧しさの象徴のようだ」として、「日本残酷物語」にある、『嬰児は恐らく「間引き」であろうという私の判断も力を得た思いがした』というのだ。

 結論から話そう。この嬰児殺しは残念ながら実際に有った事である。それは貧しさからでも無く、間引きでもなかったのである。賢治のこの「鉛いろした月光のなかに」と、その関連作品「夜」は、何かを意図として詠んだ作品では無いためか、文語詩には三行の書きかけで終っている。

 この詩に詠まれている事実は、あまりにも悲惨な出来事である。 だがもう少し詳しく話そう。

 「この崖上の部落」つまり「桜」での出来事であるが、「嫌疑で連れて行かれたり」したなかには、「赤児を あそこの凍った河原」に「捨てた」だけではなく、隠滅の為に焼却の手助けをした未成年者がいた。しかもその事が発覚したのである。歳わも行かない二人は、警察から間もなく帰されたが、当の本人は暫らく留め置かれた。男子二人を残して彼女の主人は他界していた。わたしはこの人については、この人が六十過ぎてからしか知らないのだが、身長もあり容姿端麗、さぞ若いときはと思われた。嘆願や陳情は「部落」ぐるみで行なわれ、差し入れなども行なわれたのである。彼女の生家も、当時の家も貧しさなどは微塵も感じられない。

 焼却には、麻殻(おがらとも云う)がよく、豆がらは炭化物がのこるし、麦わらでは、完全に灰にならないものが雪上に飛び落ちて、痕跡が目立つ。隠滅の為の焼却には麻がらが一番良かった。麻は何処の家でも栽培していたのである。

 しかもこの続きがある。わたしは興味本位で書いているのではない。「春と修羅 第三集」には、フィクションと事実が賢治の読者に良くみきはめて欲しいのであるからだ。

悲惨

  [ 鉛いろした月光のなかに ]

 鉛いろした月光のなかに

 みどりの巨きな犀ともまがふ

 こんな巨きな松の枝が

 そこにもここにも落ちているのは

 このごろのみぞれのために

 上の大きな梢から

 どしゃどしゃ欠いて落とされたのだ

 その松なみの巨きな影と

 草地を覆う月しろの網

 あそこの凍った河原の上へ

 はだかのまゝの赤児が捨ててあったので

 この崖上の部落から

 嫌疑で連れて行かれたり

 みんなで陳情したりした

 それもはるか昔のやう

 それからちゃうど一月たって

 凍った二月の末の晩

 誰か女が激しく泣いて

 何か名前を呼びながら

 あの崖下を川へ走って行ったのだった

 赤児にひかれたその母が

 川へ走っていくのだらうと

 はね起きて戸をあけたとき

 誰か男が追ひついて

 なだめて帰るけはひがした

 女はしゃくりあげながら

 凍った桑の畑のなかを

 こっちへ帰って来るようすから

 あとはけはいも聞こえなかった

 それさへもっと昔のようだ

 いまもう雪はいちめん消えて

 川水はそらと同じ鼠いろに

 音なく南へ滑って行けば

 その東では五輪峠のちゞれた風や

 泣きだしそうな甘ったるい雲が

 へりはぼんやりちゞれてかゝる

 そのこっちでは暗い川面を

 千鳥が啼いて溯っている

 何べん生れて

 何べん凍えて死んだよと

 鳥が歌っているようだ

 川かみは蝋のやうなまっ白なもやで

 山山のかたちも見えず

 ぼんやり赤い町の火照りの下から

 あわたゞしく鳴く犬の声と

 ふたゝびつめたい破調にかはり

 松をざあざあ云はせる風と

 この詩は、小沢俊郎氏が『詩篇「夜」鑑賞』で読まれている。(四次元126号)

この詩篇で、「春と修羅 第三集」をわたくしは終りにしたい。どこまでもぬかる路にはまって身も心も「悲惨」その者である。先にかすかな光が観えたかと思えども、あまりにも悲しいことが詠まれている賢治が、やりきれなくなるのである。

    つづく

2006-11-07

秘事法門二題

「春と修羅 第二集」晴天恣意の先駆形に『水沢臨時緯度観測所にて』がある。所長は木村栄博士で、博士の同郷人に同じお歳の「世界の禅者」鈴木大拙がいますが、大拙がどこかで語っていた。「わしよりもできたのが木村だった。木村はいつも一番でわしは二番だった」と。

 秋月龍眠著作集7に、「鈴木大拙の生涯と思想」があるが、そのなかに秘事法門に関して書かれているところがある。(21頁)

 鈴木大拙は、無言のうちに母から宗教的な感化を受けたとあり、以下のように秋月氏が書かれている。また少々長いがお付き合いを、お願い致します。

 「秘事法門の洗礼を受ける

 先生はまたこの母によって、少年の日に浄土真宗 秘事法門,の洗礼を受けました。「わたしの子供のころ、加賀には秘事法門がさかんに行なわれていたらしいのだな。父がなくなって、わしが七つか八つ、十は出んだろう。母親がある時その仲間に入ったらしいのだ。それで、わしは秘事法門の洗礼を受けたほうだ。

 そのやり方は、いまでもおぼえておるが、あれは自分の家であったようだな。母親の友だちがきて、仏壇にお灯明をあげて、お経は読んだかどうかわすれたが、先達みたいな男がいて、『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』となんべんもやたらにとなえさせる。わしがとなえたか、その男がいうたかわすれたが、ともかく南無阿弥陀仏をやたらととなえながら、膝をついて坐っているわしの上半身を持って、その男が前後にゆすぶるのだ。

 三十分か一時間か、どのくらいやったか時間をおぼえているといいのだが、そうしているうちに、いい加減のところにその運動をひょっと止めてしまう。そのときに、心理的な変化が出るのだ。それまでのリズミック・モーション(律動的運動)が破れたひょうしに、そこでどうか心理に変化が起こって、ある感覚が出る。『それ、助かった』というわけだ」。

 「かくし念仏」渋谷地派とのやり方とは違いはあるが、何れも「真宗異議異安心」である。

  ここでもう一つに触れたい。

  五来重(対談)「宗教民俗集成」8に、親鸞と庶民信仰ー野間宏との対談がある。

最近ある文学者が、「隠れ念仏」(九州鹿児島地方の)と「かくし念仏」を取り上げているが、野間の二番煎じになられないことを心から願いたいものだ。

 野間は賢治とは関連が無いので詳しいことは五来との対談や、野間の「歎異抄」論関連を、お読みしていただくとして、ここでは村の共同体の一員になる加入儀礼あるいは通過儀礼を興味本位にとりあげられるのだけではなくて、それだけとは言わないが、できうることならば田中智学著「日蓮聖人乃教義」のなかの第三編 第十七章 四 即身成仏ノ妙業 『受戒の式』を、隠し念仏との関連で、賢治はどのように観ていたのか。どのように理解していたのか。彼のところには「日蓮より観たる親鸞」なる著書もあったのだから。

2006-10-22

認定証

_088 高橋梵仙著 「かくし念仏考」[第二]

第25図 渋谷地派導師認定証

(原寸) 縦163×横117 

2006-10-20

「酉松」と「酉治」

「世の不正は、青年の無垢な心を揺さぶり,一途な正義感を点火させる。」 このような勇ましい事を書くのなら良いのだが、「羅須地人協会時代」の賢治とその対立者を書くのは気が重い。傷を負うものが出るからだ。本来ならば「春と修羅 第三集」を良く魅了されるだけでよいのだがと思う。

 「同心町」(向小路)の人も、桜の「隈」さんも小舟渡の「佐藤勘蔵」も「法印の孫娘」の「法印」なる人物も、「賢治に反感を持った対立者」さては「法華経信者」にたいする「隠し念仏の盛んな部落民の揶揄」その他もろもろの人々の綾なす時代に触れるのに、どうしてももう一人の人物に触れざるを得ない。

 洋々社の「宮澤賢治 第17号」に「羅須地人協会と最上協働村塾」なる論文を拝見した。この著者にご教示をお願いしたいことが幾つか有るが、御論考の最後にお書きになられている[注](3)にだけここでは触れたい。

 ご覧に為られておらない方もいらっしゃると思うので少々長いがお付き合い願いたい。

  『(3) この女性によれば、(参考文献に高橋千賀子「花巻市諏訪出身」様」とある)子供の誕生や、小学校へ入学するときなど、冠婚葬祭に関わらず何かあれば1軒の家に集まって拝んでいたそうである。この家は佐々木という農家であったが、代々部落民の祈祷所だったという。賢治のいう「大元締」の役目であろう。小さい頃の記憶であり、高校卒業後は家を離れ、その家の先代亡き後のことは分からないという。

 なお文献によれば、渋谷地派第5教区の昭和三十四年当時の励法員は佐々木酉松という人だが、前記の佐々木家主人と同一人物と思われる。 』

 この[注](3)は、単独でこれだけのものであるならばさほどの問題ではないが、この論文の何処のところの[注]なのかいまいちはっきり解らない。論文全体の為のものならば、恣意性にとんで紛らわしいものだが、ここではそれを問わない。

 ここでは佐々木酉松に触れよう。この論文の著者は、「渋谷地派第5教区の昭和三十四年当時の励法員は佐々木酉松」だと言う。そして「なお文献に寄れば」とある。どの文献によるのであろうか知りたい。

 高橋凡仙著「かくし念仏考 第二」397頁にも、前に写真で提示した「渋谷地 (全)」の9頁にも、第五教区は「花巻市諏訪 佐々木酉治」である。

 「渋谷地之系図写真」でも示しておいたが、稗貫郡花巻町下根子の四代佐々木酉松ー五代同 酉治」とある。大正の半ば過ぎからは所謂「渋谷地第五教区」の「隠し念仏」の実質的活動家は佐々木酉治とわたくしはみている。

 以前渋谷地派の「認定証」写真を載せておいたが、その次の頁に(かくし念仏考 第二『第25図』「認定證」に大正八年九月十四日 渋谷地本部 及川壽)とあるが,系図を見ると、「八代 及川 福蔵 は(昭和六年旧十月二十七日 往生)」とある。「九代 及川 寿」は、「認定証」にも見えるように、大正の終わり頃から昭和の初めには実質的支配者で、それと同じように酉治の場合も、賢治の「羅須地人協会時代」の「大元締」的役割をはたしていた。 

 何処のどの様な資料なのか、また賢治のどの作品に該当するものなかを問いたい。何々字典や誰かの書かれた「このように思う」からの引用などは、自分の「論」に恣意性が働き、思わぬところで「脱線」されることもあろう。そしてそれが誰かに迷惑も生じようというものだ。その考えは「壺中人」なるゆえであろうか。「ものをみていてもみえない。みているがみえない」「みえてみえない」 悲しい壺中人である。

(「酉治」に付いてはまたのきかいに記す。)

2006-10-18

「法印の孫娘」を読む

 「ほっそりとしたなで肩で/黒い雪袴(モッペ)とつまごをはい」た、農事の良く解った「透明で、できたら全部トーキーにでも撮って置きたいくら」いの娘。

 もう一人の登場人物は、容姿は「どてらを着たまま酔っていた/あの青ぶくれの大入道」とある。村人から聞いたら「バクチと濁酒」で名物人とのことであった。「稲の病気」などの書き物を見た場合は、立派な筆跡だが「どうしてばくちをやりだしたのか/或いは少し村の中では出来過ぎたので/つい横みちへそれたのか」といった「法印」なのである。

 「法印の」は、「巨きな松山の裾に/まるで公園のやうなきれいな芝の傾斜にあって/まっ黒な杉をめぐらし」た、山門みたいな物もあれば、白塗りの土蔵もある家だということだ。

 「校異」を見ると、「第二葉左下余白に、鉛筆で次のメモが記されている。」とあり、箱枠書きの中に、伊藤圭助、ききん、桜、池、娘ふたりと記されて有ると言う事だ。

 ここでは、「圭助」さんは誰かの云々ではなく、『法印の孫娘』と『憎むべき「隈」弁当を食ふ』との作品内容の違いを明らかにしたいのである。無論「文語詩」の [ 秘事念仏の大師匠 ] の[一]と[二] の内容の違いもであった。登場人物が明らかに違うのに、これ等の作品が、賢治研究者に一緒くたに読まれるのには何か分けありであろうか。

 (なを「法印の家」については、きかいがあったなら記したい。)

2006-10-16

[桜]の治サさん

写真はNo_026_1 『かくし念仏考 第二「渋谷地之系図」(331頁) 』の図(マウスポインタで拡大してご覧下さい)

「羅須地人協会時代」の賢治に最も近い{念仏信仰指導者}(矢印のところ)

伊藤治三郎は、「八景のジサさん」と呼ばれていて、「桜」のみならず「里川口町」にも所謂「隠し念仏」をひろめていた。

 以前「賢治記念館」に、学校の教師退職後、「市」から「派遣」されてお勤めをしていた大畠勉先生が、「治ささんが来ておがむんでもらったのを、覚えている」と語られた。氏は南城小学校の先生もされた「花農」出で、「桜」もよくご存知のかたであった。当時はたしか大工町がお住まいだったと思う。

 豊沢町に住んでいた佐藤勝治氏は、『やさしい研究 賢治文学のよろこび』(1987年夏)「賢治と私の生家のある花巻町豊沢町の思い出」(一)に、「・・・私は五、六歳の頃、かくし念仏で仏前で誓いを立てていました。」(46頁) と、当時のことをお書きになっている。

 伊藤治三郎は、娘に「婿」をとり、その子供に「寿」と命名した。No_022_1 治三郎は渋谷地派 九代「及川本師」として崇められていた及川 寿の名を、自分の孫につけるほどの信奉者だったのである。

 伊藤寿には、妹がいた。寿は昭和六年生まれである。

 「春と修羅 第三集」『詩稿補遺』の「法印の孫娘」は、桜の「秘事念仏者」治三郎との関連はなかろう。

2006-10-14

秘事念仏関連について

No_001_1 No_007

 文語詩 [秘事念仏の大師匠] をお読みのかたへ

9月8日NO1 NO2: 9月15日: 10月10日: 11日: 13日:

上記のようにご覧下さいます事をお願いします。

 No_012_1 下図の胆沢町史には、切支丹(第三節)もみられて、参考になるかもと思います。

 

2006-10-13

秘事念仏の大師匠

 宮澤賢治と「秘事念仏」を語るときに、文語詩稿 「五十篇」と「一百篇」にある同名の[ 秘事念仏の大師匠 ] の解明がかかせない。

 文語詩の五十篇 [ 一 ] は、口語詩『憎むべき「隈」弁当を食う」』下書稿(一)で、「文語詩化を試みた」。この下書稿(一)では「隈」が主題人物であったが、下書稿 (二)で伊藤治三郎に変わった(治三郎については後に記す)。

 詩の情景をとりあげて、場所の指定を云々してみても始まらないのかもしれないが、「北上岸の砂土に 」の手入れ稿に、「小松[の-削] と赤き萱の芽と」とある。ここは「下ノ畑」の北上川岸近辺である。

 大正のころ小舟渡は、上小舟渡・下小舟渡で、北上岸は下小舟渡の中川原とよばれ、のちの「イギリス海岸」の岸上で、情景的には合わない。文語詩「一百篇」[秘事念仏の大師匠](二)との違いは、作品内の情景もひとつの要因とみたい。(松田甚次郎著宮澤賢治名作選「昭和14年版254頁の写真も参照されたい。土手上は田畑と人家であった)

 「隈」こと伊藤熊蔵については、森荘己池著「宮澤賢治の肖像」の堀籠との対話(108~112)や、「隠念仏との小さな闘い」で語られているので省略する。森氏は、賢治の詩の解釈や、信仰と行動についていろいろと語られているが、「隠し念仏」についても誤った伝説化がなされ、私はそれを避けたいと考えるものである。

 文語詩「一百編」[ 秘事念仏の大師匠] (二)については前に記したのでそちらを見られたい。

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